少女終末旅行読了

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少女終末旅行を読む。
めっちゃ感想を書きたくなった。ネタバレ嫌な人は読まないでね。
 
驚くほど綺麗にまとまったSFだった。『世界の終わり』というセンス・オブ・ワンダーを漫画ならではの手法で描き切っている。これは小説では駄目だ。文章ではいかにも説明的過ぎるし、内容が薄く興覚めだろう。文字ではなく絵で表現するからこそ抒情あふれる終末が浮かび上がる。
この作者の表現したいことはセンセーショナルなテーマで悲劇や恐怖を煽る事ではなく、妄想として『世界が終わるときはどうなるのだろう』という好奇心と探求心の具現化にあるのだろうと思った。
登場人物のしぐさ、漫画のコマに描かれる情景、それぞれに意味がある、もしくは意味を見つける欲求をくすぐる。一旦読み終えた後、さらに読み返してうなってしまった。
 

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 最終的に、主人公が二人の少女なのも合点がいった。これが少年と少女では未来を向いてしまう。これは終末と向き合う作品なのだ。少年二人では結びつきが小さい。凸凹コンビの少女二人、彼女らはDNA、二重螺旋の暗喩だ。片方が傷ついても片方が役目を果たす二重螺旋、DNAを獲得したことによって生物は確実に命をつなぐことが可能となった。
凸凹コンビの片割れチトは怒りっぽいが、慎重かつ勤勉で探求心にあふれている。もう片方のユーは文盲だが、楽天家で衝動的、体格に恵まれて適応能力が抜群。お互いが欠点を補い合いながらケッテンクラートという乗り物に乗って永遠と続く廃虚と化した都市群を旅していく。
彼女ら以外の登場人物も現れ、それぞれの目的のため去っていくが、物語の終盤でその後、彼らはもう生きていないことが示唆されている。なぜ二人の少女にケッテンクラートという組み合わせが必要なのかという理由もわかる仕掛けが施されている。
『人類がそれを選択したから』としか説明されない世界には草花一本生えておらず、生物は皆無。一時は完璧な循環都市として機能していたであろう廃虚が果て無く階層化して連なり、ごく少数の壊れかけのロボットが崩壊が誰の目にも見て明らかなインフラを維持すべく細々と活動している。絵にかいたようなディストピアの中で彼女らはとうに失なわれてしまった人類の足跡を作者に導かれながら辿っていく。戦争を繰り返し、すべての文化を失った人類の末裔である彼女らは音楽や芸術がなんであるかを知らない。ただ本で得た知識しかなく、人々の残したものが何であるかがわからない。旅の中で懸命に生き、楽しむことで知らずの内に人類最後の音楽を奏で、人類最後のエンジニアとなり、人類最後の絵を描き、失ったものを再発見していく。
そして人類がその英知の結晶として残した巨大都市を管理する人工知能と出会い、その後始末に手を貸す。忘却が不可能であるが故自死を選択する人工知能と、現実を直視したがために忘却を友とし、生き抜くユー。そのコントラストが見事だった。
 

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そしてすべての後始末を終え、都市の最上層を目指す。作中で言う『地球が眠りにつく』ための本当に店仕舞いの物語なのだ。
すべてに始末をつけ、彼女たちが旅路の果て、最上層にたどり着いたとき目にしたものは。。。
 
最終巻である第6巻の表紙は白と黒の単純な背景をバックにしてたたずむ二人、という地味な画なのだが、すべてを読み終えた後にこれを眺めていると長い使命を終えた二人に対する作者のねぎらいが伝わってくるとても愛らしい表紙に思えた。
美しい幕切れを読み終えて、久々に読み応えのある漫画に出会えた満足感でいっぱいになった。

 

炎628を視聴。

面白かった。
あちこちの界隈で「胸糞映画」「絶望映画」の誉れ高い(笑)本作品だが、蓋を開けてみれば良質な映画作品であった。1985年、ソビエト連邦の映画。
原題を直訳すると「来て、見よ」となるらしいが監督が当初予定していて、当局からダメ出しを受けたタイトルが「ヒトラーを殺せ」。こっちのほうがプロパガンダっぽくて安っぽい。なになに、そういう映画? と思いきやさにあらず。
無論ナチスドイツが独ソ戦のさなかで行った民族浄化を描いているので、これでもかとドイツ軍の悪逆さが描かれているのは確かだけれど、それを告発、断罪する為の映画ではない。最後まで見終えてこの「ヒトラーを殺せ」というタイトルの本当の意味が理解できた。
1943年ドイツの占領地であるベラルーシで主人公の少年がパルチザンに加わるも若さゆえに戦闘への参加は許されず、ドイツ軍の攻撃から逃げ惑う中で何度も民族浄化の場面に出くわす、というストーリー。以下ネタバレ。

女子供構わず虐殺し(むしろ子供を優先的に殺している)、最終的には悪逆非道の限りを尽くしたドイツ軍部隊はパルチザンの攻撃によって壊滅。指揮官及びその首謀者たちは人々の前に引っ立てられる。その時、ドイツの将校が言い放つセリフが

子供からすべてが始まる
民族の未来も
お前たちに未来は与えられない
共産主義は劣等民族に宿る
根絶すべきだ
我々の使命だ
遂行する

というもので、それを聞いた人々は彼らをその場で虐殺します。
虐殺が終わり、感極まった少年は傍らに落ちていたヒトラーの肖像写真に発砲します。すると画面はヒトラーモンタージュ映像に切り替わり、どんどん時代をさかのぼったヒトラーの姿を映し出していきます。第二次大戦期、開戦期、オーストリア併合、政権奪取、ナチ党の勃興、第一次世界大戦。そうしながらも少年の放つ銃声が何度も響き渡り、最後、母親に抱かれた赤子時代のヒトラーの肖像が映し出され、銃声はやみます。
そして少年は皴深い老人のような表情ではらはらと涙を流す。
ラストシーンで少年はパルチザンの戦闘部隊に加わり、そのまま森の中へ消えていきます。

なるほどなぁ~! と
監督が考えていた「ヒトラーを殺せ」というタイトルはヒトラーを暗殺しろ、とか、あの独裁者を殺してしまえ、とかそういった短絡的な主張ではなく、概念としての「ヒトラー」を殺せと言っているのだと思います。何度も響き渡る銃声はその都度『なぜ、そこで止められなかったのか』という心の叫びです。ナチスの将校が放った言葉も真理です「子供からすべてが始まる」生まれたときは皆同じです。ただ、そこからどんな環境を歩むかで行き着く先への道程、すべてが始まるのです。
少年が最後、銃を背負ってパルチザンとともに森の中へ消えていくのも自明の理です。こんな時間を過ごしてしまった子供が向かう先はそこしかないように思えます。
だからこそ「ヒトラーを殺せ」なのです。
私たちはこのような子供を作ってしまわないように社会に対して責任がある。「ヒトラーを生むような要素を殺してしまいましょうね」ということなのだと思います。
少年の涙は、どれほど無垢で純粋な赤子であろうとヒトラーになりうる、という人の摂理の残酷さに対する涙なのだと思います。ただ、それは真理なのでしょう。

民族浄化では常々、女子供が犠牲になるといわれます。それは弱いから、ではなくこの可能性を恐れるがゆえにその対象になるのです。ボスニア内戦でも多くの女性が暴行を受けましたが、それは単純な暴行とは別に女たちに子供を孕ませて純粋な民族の血を絶やしてしまおうという意図がある、とされています。

ただ、恐らくここで民族浄化にかかわった(おそらくはそれ以外も含めた)多くの人々が誤解しているのは民族というものは血やDNAではなく、あくまで文化・風習で形作られているという事実だと思います。

大学時代、トルコ史の授業を取っていた時、トルコ民族が現在の小アジアにたどり着く以前、モンゴル高原に在していたころも今と同じ顔立ちだったのかと教授に質問したことがあります。その頃はモンゴロイドの顔立ちをしていたはずだ。との回答を得ました。つまり、ユーラシア大陸を時間をかけて横断してくるうち、あらゆる人々と交わり、結果今のコーカソイド系の顔立ちとなったわけです。つまり人種=民族という捉え方は誤りです。

最近、日本文化に傾倒して職人となり、日本国籍を取得する外国人が話題になったりもします。彼らは国籍的に「日本人」ではありますが、集団に属し、そのルールに従うという点で民族的にも「日本人」と言って差し支えないわけです。無論、「純粋な日本人ではない」という指摘も心情的にはあるでしょうが、概念的には完全に日本人です。
最近西欧で問題となる「文化の盗用」もこの誤解からくるものではないかと思っています。無論肌の色や風貌などの身体的特徴故に生まれる民族的差異もあると思いますが、あくまでそれは枝葉末節です。肌の白い人間が肌の黒い人間の文化に染まろうが、アジア人の服装を真似ようが文化のいきさつ的には何の問題もありません。無論、侮辱したり揶揄したりするのはいけないことでしょうが。
僕はむしろそれを禁じるのは、ほかの民族の文化が流入することで自らの純粋性が破壊される恐怖からくるものではないのかと考えたりもします。

不安な時代、自身のアイデンティティーを自らの属する民族に求める風潮が生まれています。僕はそれはそれで否定しません。人が群れるのはそうせざるを得ないから群れているのです。正当な理由であり、それを否定することは余り建設的ではありません。
ただ、民族に求めるアイデンティティーを人種に求めてしまった場合、それは間違いを引き起こすことにつながりやすいのではないでしょうか。
私たち人類が生まれて500万年。長い間ずっと文化・風習で民族を形成してきました。人種という集団を意識するようになったのはごく最近のことです。私たちはそのことを思い出しながら世界中の人々とお付き合いを広げていくべきだろうと思います。

スマホで更新するよ。

と、言うわけでスマホで更新である。
これまではスマホのタッチパネルで長文を打ち込むなんてあり得ない、と、言うわけでブログ更新なぞもっての他、といった案配であったが、
社長が余りにもメールでの業務報告を強要するので、思いきってブルートゥースキーボードを購入してしまった。
と、言うわけで、今はキーボードでサクサク更新。。。

と、言いたいところだが、
まだ、スマホ対応は過渡期らしく色々制約があって使うまでがメンドクサイ。

使い始めてもやはりまだ、パソコンのキーボードのようにはイカンわね。
もっとどうにかならないのかしら。
使えないキーも色々あるし、変換用の辞書もキーボードメーカー指定のものでないとダメとか。というか、SPPとかHIDとか接続方式がうんたらかんたらなんて、オジサンついていけません><

で、せっかくのスマホからの更新なのでスマホで撮った写真などアップしてみようか、などとも考えたのですが、どうやらyahooブログのスマホ版ではなんか今の方法では画像をアップできないそうで。。。

うーん、まだまだ過渡期なんだねぇ。。。

今じゃスマホは当たり前、的な感じになっているが、去年の今ごろはそこまで騒いでなかったもんなぁ。
そりゃあちょっとやそっとじゃ回りは対応しちゃあくれないさ。
でも、意識的には「もう対応していて当然」的な感じになっている。

世の中の流れが早すぎるだけでなく、自分もせっかちになってるかも知らんね。
自分が急かして、回りも自分を急かして、の循環の先にあるのはなにか知らん。

自分が「できて当然」みたいなことを回りに撒き散らしていると、あとあと思わぬ足をすくわれることになるぞ。

生きていますか?

と、いうわけで生きています。

久しぶりに帰ってまいりました。昼食ったら上田に帰ります。
このストレスフルな世の中、皆様いかがお過ごしでしょうか。
と、言う事で6キロほど痩せました。3週間で6キロですぜ、奥さん。
と、いうわけで入らなかったズボンが入るようになって良かったです。まる。

が、上田はいい。気候は最高です。
みなさん、遊びに来てください。
まぁ、相手をする暇はないけどな。

イースタンユースのライブに行ってきた。


昨日は仕事を終えてからイースタンユースのライブに行ってきた。

つーか、相変わらず凄かった。。。
と、ゆーか前よりも凄かっただろ、あれは。

なんとゆーかキレが違う、アンサンブルが聞こえる。
アンサンブルですよ、アンサンブル。
ギターとベースとドラムとヴォイス。そのアンサンブル。

よもやパンクロックのライブで(もはやパンクと呼ぶかどうかも定かではないが)アンサンブルを感じることになるとは夢にも思わなかった。

前の方で本能に任せて暴れながら聴くのも良いのかもしれないが、後ろのほうで音楽をかき鳴らすメンバーたちのパフォーマンスをじっくり堪能するのも悪くない。というかそういった聴き方も許してくれる懐の深さを感じる。

これってスゲー事じゃないのかい?

でもまぁ、最初から最後まで爆音だけどな!
魂の効いたパフォーマンス、もっと聴きたいっす。
流石に今日の横浜は自重しましたが自重した自分。俺はお前に言って聞かせたい!
この軟弱者め!

上田市民になりました。

本日は社長と共に社長の車で上田詣で。
昨日とっておいた転出票をもって上田市役所で転入手続き。
ついでに印鑑登録をし直して、国民健康保険上田市名義に変更。

で、別所から二人でマッサージチェアとベットを運び出す。
で、川越に帰ってきたのは午後5時。

やはり往復4時間はかかるわな。

つーか引っ越しは6月の半ばか?