フュリオサ感想。
フュリオサを観てきた。
メッチャ楽しかった。スゲー良かった。チョーサイコー! と思いながらネットで他の人の感想を見て回ったりしたのだがどうにも「思ってたのと違う」「期待が高すぎた」「悪くはないが前作と比べるとイマイチ」的な評論が多い。
あんたら何見てんのじゃ! 良かったじゃろ、フュリオサ。超良かったじゃん。ジョージ・ミラーやっぱあんたは凄いよ! 天才だよ! 「よし、お前ら! 俺が正しいフュリオサの見方を教えちゃる!」
と思った次第だったので今回はキーボードを叩いてみようと思う。
色々批判している輩共はどうも「ぼくのかんがえたサイコーにイケてるマッドマックス」をああだったらいいのにな、こうだったらいいのにな、と妄想し続け、その自身の泥沼を聖水と見誤って沐浴をキメ込みながらフュリオサを鑑賞し、ギャー! コレジャナイ!! と悲嘆落胆しているように思われる。
だが少し考えてほしい。この映画は「マッドマックス」ではない。邦題では「マッドマックス:フュリオサ」となってしまっているが原題は Furiosa: A Mad Max Saga 「フュリオサ:マッドマックスサーガ」である。
つまり、重要なのはマッドな筋肉おじさんマックス、ではなくてフュリオサ。このキャラクターの物語を描きました。という事なのだ。そしてそのフュリオサはこれまでのマッドマックスシリーズのサーガの人物。このウェイストランドに生きる英雄の物語なのだ。とジョージ・ミラーは言っているのである。
それなのに「マックスがいないから『マッドマックス』じゃない!」などと叫んでいるのはV8を信仰するウォーボーイズにも劣るこどもの駄々っ子に過ぎない。このバカタレ。
いや、だがそれも致し方のない事かとは思われる。実際問題、前作『怒りのデスロード』は史上に残る「あつまれ奇人変人!ぼくのかんがえたさいきょうマシーンがせいぞろいで大あばれ」の大運動会ムービーだったわけで、あの映画の魔力に魅入られたものは老いも若きも知能が9歳児化してしまうという、もはや特級呪物とでもいうべきかの大傑作であり世界中の大きなお友達を遍く白痴化させてしまったのだ。その白痴化された頭でフュリオサを観てもその神髄にはたどり着けない。だが、その観客を白痴化させた張本人がジョージ・ミラーであるという業の深さは生を渇望しつつも死を避けられ得ぬ人の運命と同等の因果のループを想起せざるを得ない。
しかし、真にV8を信仰する迷える子羊達よ。目を覚ましなさい。神(ジョージ・ミラー)の新たな言葉に耳を傾けなさい。あなた方は神の余りにも眩しき光を前に瞼を閉じ、内面世界の底へ囚われてしまいました。でももう大丈夫。新しい御使いが降臨なさいました。御覧なさい。そうです。そのお方が、
ディメンタス将軍なのです(ババーン!)
というわけでディメンタス将軍です。
もうね、彼ね、サイコーです。
この物語『フュリオサ』は「大隊長」フュリオサが誕生するまでの物語であるのですが。もう一つのテーマはこのディメンタス将軍の栄光と落日の物語でもあるわけです。
もうね、これネタバレですけど、このディメンタス将軍。カリスマなんだけどばかなんです。馬鹿でもバカでもなく、ばかなんです。でもね、そのばかさが美しいんです。「ああ、それやっちゃだめだよねぇ~、でもわかる。だって人間だもの」のオンパレード。彼は野生の生物なのです。本能のままに生きる人間は生命の輝きに満ちるんです。彼の操るチャリオットを引くのはバイクなのです。イモータン・ジョーのV8キャデラックなど愚鈍、愚昧。風を浴びぬ4輪車など死人の乗り物。生きる喜びなどどこにありましょうや。風を切るバイクこそ美しき生命の象徴。まさしく! 彼の白銀に輝くバイクに命を吹き込むのは空冷星形7気筒エンジン。愚鈍に地を這いまわるV8など俗人の遺物。星形エンジンの奏でる調べは天翔ける調べ(航空機用エンジンだからね)それに続くは長き金髪、豊かな髭をたなびかせ、白いパラシュートのトーガを羽織り、生命美あふれる筋肉をあらわにした偉大なる総領。ああ、ディメンタス! おお、げに美しきはディメンタスなり。
と、ばかりに私はディメンタスの神々しさにやられてしまいました。
この辺、イモータンと間違いなく意図したシンメトリーを描いてるわけで。猛烈に考え込まれているな。と感じるわけです。(V型8気筒に対して星形7気筒と1気筒足りないのもイジワルだなぁと思う)
イモータンはクズでしたがディメンタスも完全にクズです。
フュリオサはこの二人のクズと対峙する羽目になるわけで。『フュリオサ』でディメンタスを克服し『デスロード』でイモータンを克服する。リブートされてからのマッドマックスサーガは完全にフュリオサが主人公であるというのが現状と言えるでしょう。
そんなフュリオサですが『デスロード』では世間に熱狂的に受け入れられ、今回のスピンオフまで作られたわけですが、私的にはいや、それほど…。な感じでして、実際問題「あんな終末世界で片手義手のGIジェーンがタンクローリー運転するわスナイプするわ格闘するわで無双するわけないやん、でも戦う女ってみんな好きだもんねぇ、きっと物語的にサービスサービスよね~。ま、断然オレはマックス派だけどぉ~」と、うそぶくような野暮天の私に向けて、ジョージ・ミラーがオーストラリアからライフルスコープ覗いてピンポイントで打ち込んできたホローポイント弾でした!(断言)
劇場を後にして「ああ、わかるわぁ~、シャリーズ・セロンがああなったのもわかるわぁ~」と膝を打つほどに『フュリオサ』には物語のパワーがあったと言えるでしょう。
なるほど、では『フュリオサ』は『デスロード』を補完する良くできたスピンオフ映画だったわけね。と合点したアナタ、でもね、それはちょっと違います。
無論『フュリオサ』は本編を補完する、本編の説得力をより高める大きな役割を果たしています。だがしかし、この映画の原題を思い出してみてください『フュリオサ:マッドマックスサーガ』。マッドマックスサーガ。そう、マッドマックスのサーガなのです。サーガとはつまり、伝説、伝承。世界を語る、世界を残す、世界を形作る伝承。マッドマックスという世界があった。それは実在する世界である。そう、ジョージ・ミラーの脳味噌を事の起こりとして、世界中の大きなお友達の脳味噌とスカイネット的(3準拠)につながり合い、今、本当にマッドマックスワールドは実在するのです。そしてその語り部によって今、新たに掘り起こされる伝承。
世界中のお友達の内面世界、薄暗い洞窟で燃え上がる焚き火を前にに赤く浮かび上がるジョージ・ミラー爺。その彼がゆっくりと語り始めるのです。「よいかお前たち、これからお前たちの生きる世界の話をしよう。この救いのない荒れ果てた世界の成り立ちを」
ジャジャーン! それこそがこの『フュリオサ』なのです。
そうか! そうだったのか! マッドマックスワールドってこういう世界だったのか! でもどうやってあんな地を覆いつくすバイカー軍団を養ってたの? とゆーかあんな何もない砂漠にあれだけの荒くれ者集団を食わせるだけの略奪ができる集落がどれだけあるの? とゆーか、バイク三台つなげてチャリオット引かせるのって意味なくない? とか我々の生きる「現実世界」の整合性が気になってしょうがない者は回れ右。そのドアを開けてきみの生きる不毛で荒んだ「現実世界」に戻りなさい。ん? どうした、なぜ逡巡する。いや、言うな、言わなくていい。そうだ、君の戻ろうとしている救いのない、不毛で荒んだ現実。それは、マッドマックスワールドと何が違う? そう、何も違いやしない。そう、それは「現実世界」と鏡合わせの世界。どちらも一緒。唯一違うことがあるとするならば、それはジョージ・ミラー爺、そう、彼の語り聞かせる現実の寓話世界こそがマッドマックスワールドなのだ。
そう、マッドマックスワールドはすべてが寓話で成り立つ現実世界に違いないのです。
『フュリオサ』はフュリオサの目を通じて伝えられる現実の寓話。なので、フュリオサが大人になって大暴れするまでが長すぎる! とか、メッチャアガる筈のウェイストランドの40日戦争がろくすっぽ描かれないのはどう考えてもおかしい。とか怪気炎を上げている輩はウォータンクの3連モーニングスタービュンビュン(名前忘れた)でミンチしてソーセージにして序盤ディメンタスの輝かしい筋肉の一部として人生を全うすべき。
今「序盤」ディメンタスと書きましたが、作中でディメンタスは明確に序盤、中盤、終盤と描き分けられます。序盤ディメンタスは真っ白なトーガをまとって神々しく白銀のチャリオットでバイク軍団従えて真っ赤な荒野を導くディメンタス。中盤ディメンタスは髪も髭もマントまでも真っ赤に染め上げ、欲望のまま持てる者から財産を奪い取るため戦うディメンタス。終盤ディメンタスは近世風の軍服を模した黒いチョッキを羽織り、髭に白いものも混ざりつつ、ガスタウンの長の立場を活かして更なる強欲を満たそうとするディメンタス。白、赤、黒と明確に色を変えているのが分かるでしょう。これこそがマッドマックスワールドが寓話であることの証左であり、ジョージ・ミラー爺が「おまえら、こういう世界で生きてるんだろう?」と眼鏡のレンズを光らせながら我々に語り掛けてくれているのです。
若いときはイケイケで若さという命溢れた美を無駄にほとばしらせながら傍若無人に駆け回り、富める者、持てる者の存在を知った時、そこからいかに奪うかの戦いに身を投じ、富と権力を得てそれらにまみれながら狡猾さを身につけ、周囲を巻き込みながらその強欲故に破滅して行く。
やれディメンタスは頭が悪すぎるだの、言動がいちいち小物過ぎるだので全く感情移入できないなどとうそぶいているそこのキッズ。あんた、どんだけ大物なのかい? 普段偉そうにしてるけど内心ビビりだろ? いつだって適当な理屈で周りをけむに巻いて、自己保身にきゅうきゅうしてるだろ。見ろ! 俺の目を見ろ! 見えるか! 見える筈だ! そうだ、俺の目に映るそれこそがお前の見たくないお前の姿だ! お前はディメンタスと何一つ変わりはしない。本当のおまえも小心者でただ虚勢を張って自分を偉そうに飾り立て、富や名声を得ることばかりに熱中する単なる俗物だ。そしておまえはオレだ、そしてオレはおまえたちなのだ!
思慮深きジョージ・ミラー爺はそこまで直接に言う事はありません。だが寓話としてそれを私たちに諭しているのです。ディメンタスという男を通して。
ガスタウンの長の部屋に描かれた『ヒュラスとニンフたち』は寓話としてディメンタスを象徴しているという明確な描写です。この絵画はギリシャ神話の一節、美しきニンフたちに誘惑され泉の底深くに沈んだ青年ヒュラフを描いている。原油の泉に浮かぶガスタウンの頂点ほどこの絵画にふさわしい場所はない。それはこれから起こる、そしてこれまでの人類史上延々と繰り返してきた過ちの暗喩である。原油の泉の上で富、名声、権力といった数々のニンフがその主を泉の底に引きずり込む。終盤ディメンタスが登場する際、この絵には絵画を冒涜するかのようにそこかしこに落書きがされている。これは彼の「おれは決してこうはならない」という悲痛な足掻きのようにも思える。
そして、そのさまよえる暴君、悩める現代人のメタファーともいえるディメンタスを殺す者、それは母を奪われ復讐の業火に身を焼いた隻腕の戦士。その名前こそが…
フュリオサ(ジャジャーン)
とゆーわけなのである。
フュリオサ! フュリオサ! フュリオサ!
フュリオサとは何者か! それは怒りの化身! だって『フューリー』が入ってるじゃん! 『怒りのデスロード』の原題はフューリーロードよ? そう、それこそはフュリオサの道。フュリオサの運命、行き先を描く映画こそがデスロードだったのならば、そう、この『フュリオサ』はフュリオサのやってきた道。ついにこれこそが映画の本題なのである!
実り多き緑の地に育った幼き少女フュリオサちゃん(超美少女)。そのフュリオサちゃんが赤い果実をもいでいるところから物語は始まる。だが、美少女フュリオサちゃんは開始2分で汚らしいバイク軍団にさらわれ、ディメンタスの前に引き立てられ、桃だか何だかよく分からん果実も奪われる。しかし彼女を奪い返しに、やたら女だらけの緑の楽園からフュリオサママが颯爽と出撃! ディメンタスアジトからフュリオサを救出し、ついでにどういうわけか食いかけの果実から果実の種も奪い返して逃走するも、ああ、ディメンタス軍団に追いつかれて哀れフュリママは磔に! フュリオサはフュリママに「絶対帰ってコレ植えてこい!」と奪い返した種を託されるも目の前でフュリママの命を奪われ、結局囚われてしまうのだった。
緑の地で生まれ育った美少女フュリオサちゃんは超健康体。ディメンタスは彼女を懐柔するために自身が携えてきたクマちゃんのぬいぐるみを彼女に与える。そうして彼女はクマちゃんを抱きながらディメンタスと共にバイク軍団の一員として檻につながれたまま荒野をさまようことになったのだった。そしてフュリママとの約束を果たすためこっそりと緑の地へ星図のタトゥーを左腕に記すのだった。健気(涙)!
その後ディメンタスとイモータン・ジョーが抗争し、結果、交渉材料としてフュリオサちゃんはイモータンに引き渡される。その時ディメンタスは彼女からクマちゃんを取り上げる。このクマちゃんは幼年期のメタファー。幼年期が終わり、ディメンタスの作った檻から放り出されたフュリオサちゃん。彼女が最初に見たのはイモータンの「子産み女」として何不自由ない環境で生かされる女たちと健康な世継ぎを残せなかった者はそこから追い出されるという理不尽な世界だった。ドイヒー!
そんな未来はまっぴらごめんとフュリオサちゃんは決死の脱出。髪の毛を切り、そして顔を隠し声を封じ男としてイモータン・ジョーの支配する城塞で命をつなぐ。そしてもって生まれたクソ度胸と機転の良さで経験を積み、あれよあれよと城塞内での居場所を築き立派な成人となっていったのだった。ああ、この世界では女として生きることは許されないのか! となったところで彼女の前に現れる一人の男。警備隊長・ジャックだ。
彼はもう、見た目まんまマックス。革ジャンもマックス、寡黙さもマックス。戦闘力もマックス。もうお前がマックスじゃんか! …マックス、もといジャックはイモータンの生命線である輸送物資を荒野の荒くれものから守って運ぶ軍団のリーダー。フュリオサは頭巾で女であることを隠し、軍団の一員に紛れ込む。荒野を疾走する物資を積んだタンクローリー! それを奪おうとするならず者軍団との激しい戦闘! ひとり、またひとりと命を失う仲間たち。ジャック危うし! しかしその危機を救うのは!
ジャジャーン! ここぞという所でフュリオサのナイスアシスト。ついでに頭巾も飛んで長い髪もパサァ~! 見事荒くれ軍団を撃退するのであった。その後、フュリオサはジャックを補佐する女副隊長として彼から戦う術を学び、任務を通じて相棒としてお互いを信頼しあう中になっていく。そして身の上を打ち明けあい、ジャックはフュリオサを緑の地へ送り届けると約束するのだった。
二人が親密さを増し未来へ向けて脱出行の準備を整えていたその頃、ディメンタスがイモータン・ジョーに下剋上を仕掛ける。ディメンタスの仕掛けた罠にはまる二人。しかし息の合った二人の反撃にディメンタス軍団は予期せぬ損害を被る。怒り狂ったディメンタスは二人を荒野で追い回し、哀れ、二人は縄で繋がれ囚われの身に。ジャックはバイク軍団によって引き回され、バイク軍団の巻き上げる砂ぼこりの中、フュリオサは左手をクレーンにつながれ宙づりにされ、その惨劇を前に為す術もない…。
いつの間にか日は傾き、ジャックは消え、気の済んだディメンタスはアジトに引き上げる号令をかける。バイク軍団の挙げた砂ぼこりが風に飛ばされ、クレーンに吊るされたものが露わになると……なんと、それはフュリオサの左腕だった!
そう、彼女は自分の左腕を切り落とし、その場から逃走したのだ! 彼女の捨てた左腕、そこには緑の地へ星図が記されている。そう! 彼女は緑の地へ帰ることより、もっと大切なものを見つけたのだ! それは生き残ること! ジャックのために戦い、復讐を果たすこと! こりゃあ女の楽園なんて捨ててイケてる男を選ぶっきゃない!
彼女は城塞に戻るとイモータンにディメンタスの反乱を知らせ、ここにウェイストラントの40日戦争が勃発する。フュリオサは戦いに加わらず臥薪嘗胆。戦うための義手を作り上げ髪をすべて剃り落とす。女として愛したジャックはもういない。ならば私は怒れる戦士として生きる! なんて決意したのかもしらん。そしてイモータン側の勝利が決定的になった頃合いを見計らって戦場へ。そう、すべては確実にディメンタスを仕留めるためなのだ!
ここからはもう完全にフュリオサ無双。逃げるディメンタスと取り巻きをスナイプ・スナイプ・スナイプ! 確実に追い詰める。泡を食って逃げ惑うディメンタスにもう過去の面影はない。あの神々しかったチャリオットすら囮として部下に押し付け、身一人で荒野を逃げ回るが、とうとう追いつめられる。情けなくもフュリオサに捕らえられたディメンタスは嫌がらせの如く宣告する。「人を殺す刺激を知ればその快楽にあらがえない。さらに刺激を求めて人を傷つけることを繰り返しつづけるのだ。お前は俺と同じ死人だ。俺を殺せ。だが失ったものは決して帰ってはこない。お前は死ぬまで満足することはない。お前はもう死人だ」その宣告にフュリオサははらはらと涙を流す。復讐を果たしたとしても私はこの憎きディメンタスと同じようにしか生きることはできないのか! その苦悩を抱え、躊躇し、そして、彼女は復讐を果たす。ディメンタスを荒野で引き回し、枯れ木に磔にし、そして……。
エピローグで語られるのは前作「デスロード」に至る道だ。彼女はイモータンの片腕となり、ひそかに子産み女たちを救い出し、ウォータンクに乗り込ませる。彼女は健康な女たちを連れ、その守護者として旅立ったのだ。あの緑の地、女の楽園へ。その頃、ディメンタスは城塞の上で人知れず生きていた。誰も知らない秘密の場所で木の苗床として。その木には赤い果実が成っている。そう、幼い日のフュリオサがその手に持っていたあの赤い果実が。
ジャジャジャジャーン!
と、いうことで話は「怒りのデスロード」つながるわけです。
もう皆さん、その後の結論は知ってるわけで。そう、女の園なんてまやかしだったんですよ。毒の沼地ですよ。男を排除したダメな方のフェミニズムの行きつく先は地獄の沼だったわけですよ。
もうこの辺ジョージ・ミラーは意地悪ですよねえ~。前作でやたらフェミニズム擁護の映画だフェミニズムの防波堤だなんて持ち上げられてたのがこれですよ。冒頭で明確に緑の地は女たちの楽園だった! と、描いておいてのこのオチ。イジワルだぁ~。
対して男は、これはディメンタスを通して徹底的に強欲で見栄っ張り、そして戦いの快楽に頭の髄まで漬かりきっている哀れな存在なんですなぁ。しかし、城塞の一角で老いさらばえ、やせ細った哀れな彼はしかし、命の果実を宿した木を支える存在としての余生を与えられます。そう、赤い果実は命のメタファー。命をいただいて我々は生きている。ただ、いたずらに奪うだけだったディメンタスの魂は新たな命の礎という役割を与えられ、救われたのです。フュリオサはディメンタスの魂を救ったのです。
男は女によって救われ。男の若さと力強さから絞り出された果実(成果)によって誰もが命を長らえる。これは自然の摂理。
「デスロード」に登場する「鉄馬の女たち」。彼女たちはまさしく「戦う女」、古いフェミニストの象徴でしょう。老婆たちは女の楽園の夢破れ、フュリオサたちと城塞(現実世界)に向かう戦いで次々と死んでいく。哀れな古いフェミニストたちは死ぬしかないのか。否、彼女らが何を携えていたか。そう、種。汚染されていない、新たな命を紡ぐ種を携えているのですよ! 種もまた、命のメタファー。フュリオサママが種を託したのも「命をつなげ」というメッセージだしフュリオサが戦いに臨む度に種を口の中に含ませるのは「これから命を食べる(奪う)」という意味合いだったのかも。
つまり、男も、女も、命をつなぐためにそれぞれに相応しい役割がある。男は女に救われ、救われた男は女の礎になる。それぞれが円環の如く交差しあう存在こそが男と女なのだ。
フュリオサが心から信頼した男、ジャックは、ディメンタスとの闘いに臨む前、フュリオサに積めるだけの水と野菜と食料を用意したと告げます。そして最後に付け加えるように「お前の好きなチェリーもあるぞ」と。
この「チェリー」があの赤い果実であるならば、これでフュリオサはジャックから命を与えられた、ジャックの子供を身籠った、という暗喩とも思えます。
その後、フュリオサはジャックを失い、悲しみを抱えたまま子産み女たちを連れた逃避行に出ます。そしてその中でマックスと出会い、彼とともに戦い、彼の支えを得て戦いの果て、彼女は城塞の頂点へ上り詰めます。
頂点へと昇るプラットフォームから見下ろす先、群衆の中、彼女に背中を向けてそっと去っていくマックス。静かに遠ざかるその背中をみてフュリオサはこう思ったことでしょう「ああ、ジャック、あなただったのね」。そう、ジャックはマックスのそっくりさんではなかったのです。マックスこそフュリオサにとっての本物の男、ジャックだったのです。
そうなるとマックスとは何者かという疑問に突き当たりますが、作中でマックスと同じ境遇の男がもう一人、出てきます。それは、そう、ディメンタスです。彼らは二人とも過去に家族を失うトラウマを抱えた傷ついた男なのです。過去作でマックスは孤独な男として犬を連れています。そして、ディメンタスもまた犬を連れている。これは過去に傷ついた男の物語なのです。一つボタンを掛け違えばマックスがディメンタスにもなりうるし、その逆もまた然り。そしてディメンタスは常にクマちゃんを身に着けている。このクマちゃんはずっと鎖につながれています。このクマちゃんは幼年期の象徴だと書きました。最後、ディメンタスは、クマちゃんの鎖を断ち切って彼からそれを取り上げたフュリオサに対し「失ったものも幼少期も帰ってこない」と告げます。その文脈でいうとディメンタスは常に(フュリオサにクマちゃんを預けていた時期を除いて)鎖でつながれた幼少期を携えていたことになります。鎖でつながれた幼少期とは何か。それはいわゆる文字通りの虐待であったり、もしくはそうでなくとも親や社会によって刻まれた心に傷を負うような幼少期の刷り込み、もしくは教育だったのかもしれません。つまり、そんなものを携えていたからこそ、ディメンタスはマックスではなく、「ディメンタス将軍」になってしまった。とも読み取れるでしょう。
そう考えるとジャック=マックス=ディメンタスとして考えてみることもできるのではないかと。そして、それらの指し示すものそれは=(イコール)男、であると言い切っても良いかもしれません。
そして、その男と女が手を取り合い戦う先、そこに立ち塞がるのがイモータン・ジョーです。彼はよく家父長制や男根主義、男性主権の象徴であると語られますが、そうではないように思います。なぜならそれでは彼が「イモータン」不死である理由にならないからです。それらは未だ無くならないとはいえ著しくその勢力を削がれつつあり、今現在懸念するべき大きな脅威であるとは思われません。それよりも彼の名が不死である理由はもっと抽象的な概念の化身であるからでしょう。それはつまり「社会」。より具体的に言うなら「功利主義に則った社会」というべきかもしれません。
人が人と交わって生きる限り必ず生まれるのが社会です。その中では大なり小なり「役に立つのはだれか」「役に立たないのはだれか」といった物差しが生じます。
イモータン・ジョーの支配する城塞ではそれが極端に描写されています。役立たずは捨てられ、若者は使い捨てられ、健康な女だけが尊重される。
では果たして我々の生きる現実世界はどうか。利を生み出すものは尊重され、利を損なうものは忌避される。究極的には同じではないか。人が人として生きる限り、その業は必ず生まれる。それなしに社会が成り立つことは決してあり得ない。だからこそ「イモータン」不死なのだ。
ジョージ・ミラーが言いたかったことは何か、「男も女も手を取り合って今、お前たちが生きている社会と戦え」そう言いたいのではないでしょうか。
今回の「フュリオサ」と前作の「デスロード」。まとめてフュリオサ二部作といってもいいでしょう。これらはジョージ・ミラーの作った現代の寓話であり、これから我々が生きるべきサバイブの手引き、道しるべとして読み解けると思います。
どうです? メッチャ面白いでしょう?
え? それでも「フュリオサ」はイマイチ? 「デスロード」の続編として見に行ったのに期待値を越えなかった?
馬鹿言ってんじゃないよ、じゃあさ、みんなすっかり忘れてるけど「デスロード」はなんの続編だったか言ってごらん? ほら、なんだっけ? そう「サンダードーム」。
サンダードームの続編よ? サンダードーム。サンダードーム。
「サンダードーム」の続編と「デスロード」の続編、どっちが期待値超えてくると思う? わかる? わかるよね。まったくもう、このバカタレめ。
少女終末旅行読了





炎628を視聴。
面白かった。
あちこちの界隈で「胸糞映画」「絶望映画」の誉れ高い(笑)本作品だが、蓋を開けてみれば良質な映画作品であった。1985年、ソビエト連邦の映画。
原題を直訳すると「来て、見よ」となるらしいが監督が当初予定していて、当局からダメ出しを受けたタイトルが「ヒトラーを殺せ」。こっちのほうがプロパガンダっぽくて安っぽい。なになに、そういう映画? と思いきやさにあらず。
無論ナチスドイツが独ソ戦のさなかで行った民族浄化を描いているので、これでもかとドイツ軍の悪逆さが描かれているのは確かだけれど、それを告発、断罪する為の映画ではない。最後まで見終えてこの「ヒトラーを殺せ」というタイトルの本当の意味が理解できた。
1943年ドイツの占領地であるベラルーシで主人公の少年がパルチザンに加わるも若さゆえに戦闘への参加は許されず、ドイツ軍の攻撃から逃げ惑う中で何度も民族浄化の場面に出くわす、というストーリー。以下ネタバレ。
女子供構わず虐殺し(むしろ子供を優先的に殺している)、最終的には悪逆非道の限りを尽くしたドイツ軍部隊はパルチザンの攻撃によって壊滅。指揮官及びその首謀者たちは人々の前に引っ立てられる。その時、ドイツの将校が言い放つセリフが
子供からすべてが始まる
民族の未来も
お前たちに未来は与えられない
共産主義は劣等民族に宿る
根絶すべきだ
我々の使命だ
遂行する
というもので、それを聞いた人々は彼らをその場で虐殺します。
虐殺が終わり、感極まった少年は傍らに落ちていたヒトラーの肖像写真に発砲します。すると画面はヒトラーのモンタージュ映像に切り替わり、どんどん時代をさかのぼったヒトラーの姿を映し出していきます。第二次大戦期、開戦期、オーストリア併合、政権奪取、ナチ党の勃興、第一次世界大戦。そうしながらも少年の放つ銃声が何度も響き渡り、最後、母親に抱かれた赤子時代のヒトラーの肖像が映し出され、銃声はやみます。
そして少年は皴深い老人のような表情ではらはらと涙を流す。
ラストシーンで少年はパルチザンの戦闘部隊に加わり、そのまま森の中へ消えていきます。
なるほどなぁ~! と
監督が考えていた「ヒトラーを殺せ」というタイトルはヒトラーを暗殺しろ、とか、あの独裁者を殺してしまえ、とかそういった短絡的な主張ではなく、概念としての「ヒトラー」を殺せと言っているのだと思います。何度も響き渡る銃声はその都度『なぜ、そこで止められなかったのか』という心の叫びです。ナチスの将校が放った言葉も真理です「子供からすべてが始まる」生まれたときは皆同じです。ただ、そこからどんな環境を歩むかで行き着く先への道程、すべてが始まるのです。
少年が最後、銃を背負ってパルチザンとともに森の中へ消えていくのも自明の理です。こんな時間を過ごしてしまった子供が向かう先はそこしかないように思えます。
だからこそ「ヒトラーを殺せ」なのです。
私たちはこのような子供を作ってしまわないように社会に対して責任がある。「ヒトラーを生むような要素を殺してしまいましょうね」ということなのだと思います。
少年の涙は、どれほど無垢で純粋な赤子であろうとヒトラーになりうる、という人の摂理の残酷さに対する涙なのだと思います。ただ、それは真理なのでしょう。
民族浄化では常々、女子供が犠牲になるといわれます。それは弱いから、ではなくこの可能性を恐れるがゆえにその対象になるのです。ボスニア内戦でも多くの女性が暴行を受けましたが、それは単純な暴行とは別に女たちに子供を孕ませて純粋な民族の血を絶やしてしまおうという意図がある、とされています。
ただ、恐らくここで民族浄化にかかわった(おそらくはそれ以外も含めた)多くの人々が誤解しているのは民族というものは血やDNAではなく、あくまで文化・風習で形作られているという事実だと思います。
大学時代、トルコ史の授業を取っていた時、トルコ民族が現在の小アジアにたどり着く以前、モンゴル高原に在していたころも今と同じ顔立ちだったのかと教授に質問したことがあります。その頃はモンゴロイドの顔立ちをしていたはずだ。との回答を得ました。つまり、ユーラシア大陸を時間をかけて横断してくるうち、あらゆる人々と交わり、結果今のコーカソイド系の顔立ちとなったわけです。つまり人種=民族という捉え方は誤りです。
最近、日本文化に傾倒して職人となり、日本国籍を取得する外国人が話題になったりもします。彼らは国籍的に「日本人」ではありますが、集団に属し、そのルールに従うという点で民族的にも「日本人」と言って差し支えないわけです。無論、「純粋な日本人ではない」という指摘も心情的にはあるでしょうが、概念的には完全に日本人です。
最近西欧で問題となる「文化の盗用」もこの誤解からくるものではないかと思っています。無論肌の色や風貌などの身体的特徴故に生まれる民族的差異もあると思いますが、あくまでそれは枝葉末節です。肌の白い人間が肌の黒い人間の文化に染まろうが、アジア人の服装を真似ようが文化のいきさつ的には何の問題もありません。無論、侮辱したり揶揄したりするのはいけないことでしょうが。
僕はむしろそれを禁じるのは、ほかの民族の文化が流入することで自らの純粋性が破壊される恐怖からくるものではないのかと考えたりもします。
不安な時代、自身のアイデンティティーを自らの属する民族に求める風潮が生まれています。僕はそれはそれで否定しません。人が群れるのはそうせざるを得ないから群れているのです。正当な理由であり、それを否定することは余り建設的ではありません。
ただ、民族に求めるアイデンティティーを人種に求めてしまった場合、それは間違いを引き起こすことにつながりやすいのではないでしょうか。
私たち人類が生まれて500万年。長い間ずっと文化・風習で民族を形成してきました。人種という集団を意識するようになったのはごく最近のことです。私たちはそのことを思い出しながら世界中の人々とお付き合いを広げていくべきだろうと思います。
スマホで更新するよ。
これまではスマホのタッチパネルで長文を打ち込むなんてあり得ない、と、言うわけでブログ更新なぞもっての他、といった案配であったが、
社長が余りにもメールでの業務報告を強要するので、思いきってブルートゥースキーボードを購入してしまった。
と、言うわけで、今はキーボードでサクサク更新。。。
と、言いたいところだが、
まだ、スマホ対応は過渡期らしく色々制約があって使うまでがメンドクサイ。
使い始めてもやはりまだ、パソコンのキーボードのようにはイカンわね。
もっとどうにかならないのかしら。
使えないキーも色々あるし、変換用の辞書もキーボードメーカー指定のものでないとダメとか。というか、SPPとかHIDとか接続方式がうんたらかんたらなんて、オジサンついていけません><
で、せっかくのスマホからの更新なのでスマホで撮った写真などアップしてみようか、などとも考えたのですが、どうやらyahooブログのスマホ版ではなんか今の方法では画像をアップできないそうで。。。
うーん、まだまだ過渡期なんだねぇ。。。
今じゃスマホは当たり前、的な感じになっているが、去年の今ごろはそこまで騒いでなかったもんなぁ。
そりゃあちょっとやそっとじゃ回りは対応しちゃあくれないさ。
でも、意識的には「もう対応していて当然」的な感じになっている。
世の中の流れが早すぎるだけでなく、自分もせっかちになってるかも知らんね。
自分が急かして、回りも自分を急かして、の循環の先にあるのはなにか知らん。
自分が「できて当然」みたいなことを回りに撒き散らしていると、あとあと思わぬ足をすくわれることになるぞ。
