炎628を視聴。

面白かった。
あちこちの界隈で「胸糞映画」「絶望映画」の誉れ高い(笑)本作品だが、蓋を開けてみれば良質な映画作品であった。1985年、ソビエト連邦の映画。
原題を直訳すると「来て、見よ」となるらしいが監督が当初予定していて、当局からダメ出しを受けたタイトルが「ヒトラーを殺せ」。こっちのほうがプロパガンダっぽくて安っぽい。なになに、そういう映画? と思いきやさにあらず。
無論ナチスドイツが独ソ戦のさなかで行った民族浄化を描いているので、これでもかとドイツ軍の悪逆さが描かれているのは確かだけれど、それを告発、断罪する為の映画ではない。最後まで見終えてこの「ヒトラーを殺せ」というタイトルの本当の意味が理解できた。
1943年ドイツの占領地であるベラルーシで主人公の少年がパルチザンに加わるも若さゆえに戦闘への参加は許されず、ドイツ軍の攻撃から逃げ惑う中で何度も民族浄化の場面に出くわす、というストーリー。以下ネタバレ。

女子供構わず虐殺し(むしろ子供を優先的に殺している)、最終的には悪逆非道の限りを尽くしたドイツ軍部隊はパルチザンの攻撃によって壊滅。指揮官及びその首謀者たちは人々の前に引っ立てられる。その時、ドイツの将校が言い放つセリフが

子供からすべてが始まる
民族の未来も
お前たちに未来は与えられない
共産主義は劣等民族に宿る
根絶すべきだ
我々の使命だ
遂行する

というもので、それを聞いた人々は彼らをその場で虐殺します。
虐殺が終わり、感極まった少年は傍らに落ちていたヒトラーの肖像写真に発砲します。すると画面はヒトラーモンタージュ映像に切り替わり、どんどん時代をさかのぼったヒトラーの姿を映し出していきます。第二次大戦期、開戦期、オーストリア併合、政権奪取、ナチ党の勃興、第一次世界大戦。そうしながらも少年の放つ銃声が何度も響き渡り、最後、母親に抱かれた赤子時代のヒトラーの肖像が映し出され、銃声はやみます。
そして少年は皴深い老人のような表情ではらはらと涙を流す。
ラストシーンで少年はパルチザンの戦闘部隊に加わり、そのまま森の中へ消えていきます。

なるほどなぁ~! と
監督が考えていた「ヒトラーを殺せ」というタイトルはヒトラーを暗殺しろ、とか、あの独裁者を殺してしまえ、とかそういった短絡的な主張ではなく、概念としての「ヒトラー」を殺せと言っているのだと思います。何度も響き渡る銃声はその都度『なぜ、そこで止められなかったのか』という心の叫びです。ナチスの将校が放った言葉も真理です「子供からすべてが始まる」生まれたときは皆同じです。ただ、そこからどんな環境を歩むかで行き着く先への道程、すべてが始まるのです。
少年が最後、銃を背負ってパルチザンとともに森の中へ消えていくのも自明の理です。こんな時間を過ごしてしまった子供が向かう先はそこしかないように思えます。
だからこそ「ヒトラーを殺せ」なのです。
私たちはこのような子供を作ってしまわないように社会に対して責任がある。「ヒトラーを生むような要素を殺してしまいましょうね」ということなのだと思います。
少年の涙は、どれほど無垢で純粋な赤子であろうとヒトラーになりうる、という人の摂理の残酷さに対する涙なのだと思います。ただ、それは真理なのでしょう。

民族浄化では常々、女子供が犠牲になるといわれます。それは弱いから、ではなくこの可能性を恐れるがゆえにその対象になるのです。ボスニア内戦でも多くの女性が暴行を受けましたが、それは単純な暴行とは別に女たちに子供を孕ませて純粋な民族の血を絶やしてしまおうという意図がある、とされています。

ただ、恐らくここで民族浄化にかかわった(おそらくはそれ以外も含めた)多くの人々が誤解しているのは民族というものは血やDNAではなく、あくまで文化・風習で形作られているという事実だと思います。

大学時代、トルコ史の授業を取っていた時、トルコ民族が現在の小アジアにたどり着く以前、モンゴル高原に在していたころも今と同じ顔立ちだったのかと教授に質問したことがあります。その頃はモンゴロイドの顔立ちをしていたはずだ。との回答を得ました。つまり、ユーラシア大陸を時間をかけて横断してくるうち、あらゆる人々と交わり、結果今のコーカソイド系の顔立ちとなったわけです。つまり人種=民族という捉え方は誤りです。

最近、日本文化に傾倒して職人となり、日本国籍を取得する外国人が話題になったりもします。彼らは国籍的に「日本人」ではありますが、集団に属し、そのルールに従うという点で民族的にも「日本人」と言って差し支えないわけです。無論、「純粋な日本人ではない」という指摘も心情的にはあるでしょうが、概念的には完全に日本人です。
最近西欧で問題となる「文化の盗用」もこの誤解からくるものではないかと思っています。無論肌の色や風貌などの身体的特徴故に生まれる民族的差異もあると思いますが、あくまでそれは枝葉末節です。肌の白い人間が肌の黒い人間の文化に染まろうが、アジア人の服装を真似ようが文化のいきさつ的には何の問題もありません。無論、侮辱したり揶揄したりするのはいけないことでしょうが。
僕はむしろそれを禁じるのは、ほかの民族の文化が流入することで自らの純粋性が破壊される恐怖からくるものではないのかと考えたりもします。

不安な時代、自身のアイデンティティーを自らの属する民族に求める風潮が生まれています。僕はそれはそれで否定しません。人が群れるのはそうせざるを得ないから群れているのです。正当な理由であり、それを否定することは余り建設的ではありません。
ただ、民族に求めるアイデンティティーを人種に求めてしまった場合、それは間違いを引き起こすことにつながりやすいのではないでしょうか。
私たち人類が生まれて500万年。長い間ずっと文化・風習で民族を形成してきました。人種という集団を意識するようになったのはごく最近のことです。私たちはそのことを思い出しながら世界中の人々とお付き合いを広げていくべきだろうと思います。