ぶらり自動車一人旅 ~二人の祖母に会う編~

転職を親類に報告しに行くという大義名分でもって自動車一人ぶらり旅である。

目的地は父の実家のある、島根県大田市
祖父はすでに亡き人となっているが祖母が健在である。

で、月曜午前8時、デミオで勇躍飯能を出発。
圏央道から中央道、名神中国道米子道、そして山陰道、というルートである。

最初はいい天気、中央道の八ヶ岳辺りでは空気もよく澄み、真っ青な空に紅葉がよく映える最高のロケーション。だったのだが、諏訪に近づいた辺りより雲行きが怪しくなり雨が降り始める。
で、結局到着するまで雨が降ったりやんだりの妙な天気だった。
つーか雨の高速は気を使うなぁ。。。
などと言いながらも真っ暗になってから、疲労がピークになった頃、土砂降りの米子道を猛烈なスピードで飛ばすのは死と隣り合わせの妙な快感であった。脳に変な物質分泌されてたと思う。

で、午後8時前に祖母の家に到着。
ゆっくり風呂に入ってメシを食う。タイの昆布じめとイカ刺しが非常に美味だった。
祖母曰く、北海道にパック旅行に出かけたとき、生け簀で泳いでいるイカがすぐイカ刺しになって食事に出るというのでその生け簀を見に行ったら太田の方ではスルメにするようなイカが泳いでいて驚いたそうな。「こんなもん刺身にしてくわせるんかいな」と大いに不満だったそうな。

翌日は8時半に起床。
ゆっくり朝食をとる。とゆーか祖母と世間話をしながら小一時間は食っていただろうか。
朝食は魚がいいとリクエストしたので、献立はコメと納豆とみそ汁とカレイの干物。
祖母はいつも朝食はパンである。
祖母曰く、
「近所の人は『今日は朝から山崎から魚のにおいがするで、どがんしたんかいの?』ちゅうとるやろね」
との言葉あり。
田舎の隣近所はいろんな意味で非常に近い&深い。
特に用もなく近所の友人がやってきてはお茶飲み話をしてあっという間に昼になって、午後も老人仲間がやってきてまたお茶飲み話をしているうちに夕飯の支度とルーティーンワークで忙しいそうな。
うむ、同じ一人暮らしでも都会の老人とはエライ違いだ。

で、その日は10時半ごろ家を出て今度は母方の祖母に会いに山口県萩市にむかう。
こちらも祖父はすでに亡き人。祖母は糖尿にアルツハイマーパーキンソン病を患ってずっと入院生活中である。何年かぶりのお見舞いだ。
で、午後2時過ぎ現地到着。
話に聞くにもうボケてオレの顔もワカランかもしらん、という話だったが、実際に会うにそんなことはなかったのだった。右も左もわからんようなボケ老人ではなかった。
太田の祖母のアドバイスも良かった。物忘れしている老人に無理に思い出させようとしてもイカン、自分から教えた方が良い。と。
確かに、思い出そうとして思い出せないことが重なる状態というのは非常に惨めであろう。
だったらこちらからすぐ「清太郎が来たぞ、ばあちゃん、生きとるか?」と話しかけた方がイイのである。
パーキンソンで車椅子生活を余儀なくされている祖母は表情を変えるのにも難儀しているはずなのに、かすかに嬉しそうな顔をして「清太郎かい、きてくれて嬉しいよ」と答えたのだった。

会話もそれなりに成立する。

なんだか映画やらドラマやらでボケ老人介護の壮絶さを見ている俺としてはなんだか肩透かしを食ったような感覚なのだった。
「思ったよりも元気でしょう?」
祖母はそんな風に言ってみせたのだった。うん、確かにその通りです。お見それいたしました。

で、面会もそこそこに萩の街を軽く見て周り、5時前には再び太田に向かう。
飛ばしたら3時間でついてしまったのだった。

夜は二人で鍋をつつきながら、祖母の小さい頃の話や戦時中の話、祖父との思い出話を聞いて夜はふけたのだった。
小学校4年生の時に日中戦争が始まったんだってさ。朝礼で校長先生から聞かされたのをよく覚えてるそうな。おやつも配給制だったそうです。
で、女学生の時には岩国で勤労奉仕してたそうな。ジェラルミンの板を型の上に乗せてカナヅチでトンカントンカン、ゼロ戦やら雷電の部品を作っていたそうです。勤労女学生の作る戦闘機。う~ん、兵隊さんはそういうものに命を預けて空を飛んでいたんだなぁ。みんな大変だ。
で、最後は食い物がなく、栄養失調になって太田に送り返されて終戦を迎えたそうです。

祖母の少女時代は配給制のおやつに始まり、栄養失調で暮れたのだった。。。