『流刑民から見た世界史』 オーストラリアその4

とゆーわけでその4である。

とにかく、頼みの種はアメリカさんである。なにやら『戦時体制への移行』イベントが発生してこちら側への参戦が濃厚な気配である。やはりポーランド侵攻以来ひたすらドーバーをはさんでの爆撃合戦がかの国の国民にも緊張を高めているのであろう。しめしめ。

アルバニアに宣戦を布告したドイツ軍であるが、それにつられてハンガリーも枢軸側に参戦してきた。
アルバニアでの戦いはドイツに出る幕は無いようで、イタリア海軍がアドリア海からドッカンドッカン砲弾を撃ち込んでいる。そのイタリア海軍の砲撃音に恐れをなしたからかどうかは分からんが、次いでルーマニアも枢軸に参戦を表明したのだった。
1940年11月26日にあえなくアルバニアはイタリアに併合される。

さかのぼる事二日前の11月24日、日本はドイツ、イタリアと三国同盟を結成。だが日本は枢軸陣営への参戦には一歩距離を置いたようだ。加わってはいないのである。なんじゃそりゃ。
つーかゲームのルール上そんなことができるのか? 同盟を結成しつつ、陣営には参加しないだなんて。
でも、まぁ、日本としては枢軸なんかに加わりたくないのも分かる気がする。
ドイツはどう見ても対ソ戦の準備をしてるし、枢軸に加わったらドイツと一蓮托生だからなぁ。

中国のケリもついて無いのにソ連と戦争する暇なんかありませんよ!

という日本政府首脳の叫びが聞こえてきそうである。うーん、史実の日本よりもAIの日本の方が賢いかも。

すると、三国同盟結成の知らせを受けたか受けないでか、まったく同日にアメリカで『武器貸与法案が可決』イベント発生。お、いよいよアメリカも本腰を上げ始めたようだぞ。

一方、未だひたすら工業化に明け暮れる我がオーストラリアであるが、その枕元である東南アジアで、シャム(タイ)と日本の軍事同盟によっていきなりきな臭い空気がくすぶり始めている。
そろそろこちらも腰を上げて軍備を整えなければならない。
だが、シャムはともかく仏領インドシナの日本軍は大問題である。すでに中国ではあっという間に南京を落としかなり優勢に戦いを進めている。既に全土にわたって長江の渡河に成功しているのだ。だが、抗日統一戦線も未だ健在であり、そちらに兵力の大部分は持っていかれるだろう。
あと、アメリカが参戦してくれればフィリピンにも兵力を裂くはず。スパイの情報によると、日本は海軍戦力の増強を急いでいる。対米参戦は濃厚だ。

とゆーわけでひとまず、我がオーストラリア陸軍はこつこつと積み重ねた工業力を総動員して歩兵の大部隊を組織し、インドシナの日本軍が増強される前にそれを叩く。とゆープランを立ててみる。
そして海軍は必要なし! アメリカ海軍とロイヤルネイビーにタダ乗りである。
が、陸軍編成は計画を立てる以前の問題であった。
よくよく見てみると我がオーストラリアにはズバリ人がいない。労働者全員を兵隊に引っ張るとゆー恐ろしい国策を敷いても現有日本軍の五分の一程度の兵力しか編成できない。

ああ、人よ、人口が足りない。

それを見越して内務大臣に『労働者増加のプラス修正25パーセント』というステキ能力の大臣をつけていたのだが焼け石に水
ならば精強なるオーストラリア機甲師団を編成して日本の銀輪部隊を南シナ海に叩き込んでやる!
と息巻いてみるが、シャムだのインドシナ半島周辺はジャングルか山岳地帯。しかもインフラの数値も地を張っている。戦車が脚を踏み入れれば最後、もはや身動きの取れない鉄のカンオケ
とゆーわけでこの案もボツ。
とゆーわけで仕方なくコツコツと山岳歩兵の生産に勤しむのであった。
当然歩兵も作るでよ。いくら山岳地帯で脚が遅くなるとはいっても戦車よりはマシ
だが、歩兵もただ作るだけではなく『精強な歩兵』が目的である。随伴する旅団には必ず『改良型野砲』装備。しかも今後を見越して随伴旅団の研究に血道を上げる
とまぁ、そんな按配で防衛計画を立ててみたものの、工場の生産も相変わらず続いているので軍備の増強は遅々として進まないのであった。大丈夫か? オーストラリアよ。

とまぁ、東南アジアはなんかきな臭いなぁ、なんて思っていた頃。
欧州戦線は真っ赤に燃えていた。
連合国はアフリカで反撃を開始。北アフリカではなくエチオピアで攻勢を展開した。
そしてヨーロッパでは年が明けて1941年3月2日、ドイツがユーゴスラビアに宣戦を布告。
ついにドイツのバルカン侵攻が始まったのである。
ユーゴは北からはドイツ、ハンガリールーマニア。西側のアルバニアからはイタリア軍が。
そしてドサクサにまぎれて火事場泥棒よろしく枢軸参戦したブルガリアと四方八方から攻め込まれてビックリ。急遽連合国入り
連合軍に助けを求めるが、その当の連合軍はアフリカ戦線に釘付け。とてもではないがバルカンまで手が回らない。
ユーゴ軍は地の利を生かし、どうにか耐え忍ぶものの、結局は数と質で凌駕するドイツ軍に全土を蹂躙され、とうとう5月10日、ユーゴスラビアはドイツに併合された。
ユーゴは分割され、北側のクロアチアだけがドイツの属国として独立を許されたのだった。ああ、今後の内戦の種がまたここに……。

バルカンがあぶないと悟ったか悟らいでか、イギリスは急遽ギリシャに『独立を保障する』なぞという今更良く分からない声明を発表。しかし、その声明は当のギリシャによって
「ドイツに連合寄りだと思われたらどうすんだ! 余計なことすんなバカ!」
と突っぱねられてしまったのだった。
一刻も早くも対ソ戦を始めたいドイツはそれを見てギリシャはほっといても大丈夫っぽい」と思ったらしく、兵を引いた。かくしてひとまずバルカンの戦争は一息ついたのだった。

しかし、アフリカはまだ熱く燃えている。
エチオピアを制圧した連合軍は紅海沿いに北上、遂に地中海に到達し、イタリア軍を東西に分断した。
だが連合軍としては分断するだけで精一杯。東側はカイロ周辺でスエズ運河を目の前にしながら足踏みし、西側はイタリアの機甲師団相手に一進一退の攻防を繰り広げている。

その様子を見て、それまでは何が起きても「金は出しても人は出さない」と、どこぞの経済国家っぽく知らん顔をしていた我がオーストラリアであったが、ここに至って「対日戦の前に戦闘経験を積んでおくのもまぁいっか」という名目のもと歩兵部隊を派兵したのであった。(アフリカでがんばる同じコモンウェルスのカナダ兵やニュージーランド兵を見てなんだか忍びなくなったと言うのもある)

1941年4月25日。編成し終えたばかりのぴっかぴかの新品歩兵部隊4個師団を乗せたオーストラリア輸送艦部隊が港を出発。途中、インド洋のディエゴガルシア島にて補給を受け、5月25日エジプト南部ワディハルハに到着。6月中にはカイロ周辺の前線に到着したのであった。
んで、早速戦闘に巻き込まれる。
カイロ周辺での戦闘はわが歩兵師団の活躍もあり次第に連合側に優勢となり、遂にイタリア軍スエズ西岸、ポートサイドまで追い詰めることに成功する。
そして8月某日、我がオーストラリア歩兵4個師団は連合軍の支援を受けながらポートサイドに陣を敷くイタリア軍に攻撃を決行、遂にこれを撃退し8月20日、ポートサイド到着。遂にスエズ運河を眼前にしたのであった!
連合軍は間もなくスエズ東岸への攻撃を開始。先の戦闘で疲弊した我が軍は対岸からの支援攻撃によって連合軍の勝利に貢献。やればできる子なのよ。オーストラリア陸軍は。

が、カイロ周辺で我が軍がイタリア軍と睨み合っていたとき、遂に来るべき時が来てしまった。
ドイツがソ連へ戦線布告したのである。
1941年6月22日 バルバロッサ作戦が発令。
同時にフィンランドも枢軸陣営での参戦を表明。ドイツとの共同戦線を張り、ソ連領になだれ込んだのであった。
ドイツが勝つか、ソ連が勝つか。どちらに転んでも歴史が大きく動くことになる。

そんなロシアから響く軍靴の音に気をとられながらもアフリカ戦線は続く。
スエズを失ったアフリカ東部のイタリア軍シナイ半島パレスチナと東へ東へと生存権を求めイラクに進出、そして10月1日、イラクを併合。ただ、いけるのはそこまで。
歩兵主体の連合軍は歩みこそ遅いものの、確実にイタリアから占領地を奪っていった。イタリア軍がそれに飲み込まれるのはもはや遠い日のことではあるまい。
一方アフリカ西部のイタリア軍機甲師団を前に押し出し未だ頑強な抵抗を示している。だがこちらにも反撃に出るほどの兵力は残っていないはずだ。いずれ押し込まれるだろう。
と、アフリカ戦線が最終局面に入っていた矢先、その一報はもたらされた。
1941年11月20日午前11時00分 日本軍 パールハーバーを攻撃
遂に日本はアメリカに宣戦を布告したぞ。同時にアメリカも日本に宣戦を布告して連合国入り
アメリカも遂に連合に入ったのである。今頃チャーチルは小躍りしているに違いない。
だが、我がオーストラリアは小躍りなどしていられない。日本と軍事同盟を結ぶシャムも連合国に宣戦を布告したのだ。同時に英領ビルマとの国境沿いにシャム軍の展開が始まった。もはや日本&シャムの侵攻は時間の問題である。
こうなればほぼケリの付いたアフリカなぞに長居は無用。後は、イギリス、カナダ、ニュージーランドに任せて撤収だ。
アフリカからビルマまではかなり遠い。アフリカ派遣軍がビルマに到着するまで一月近くはかかるだろう。
だが、我々にとってアフリカでの戦いは無益ではなかった。
というのも我がオーストラリア陸軍にはスキルの高い将軍が多いのだが、皆階級が低く、大部隊を指揮できないのである(ちなみに大将の能力はうんこ)。そのスキルの高い将軍がアフリカでの戦闘経験によって昇進したのである。能力ある将軍に大部隊を任せられるようになったのは収穫であろう。

そして我が軍にはまだ切り札がある。アフリカ派遣軍が帰ってくるまで一月も待ってられない。
このときの為にわれわれは山岳歩兵4個師団を用意していたである。
インドシナ半島特有の地形で絶大な威力を発揮するこの歩兵部隊4個師団を乗せ、シドニーから輸送艦部隊を出航させる。目的地ラングーンへの到着予定日は12月3日。

時は一刻を争う出航であった。