『流刑民から見た世界史』 オーストラリアその5

とゆーわけでその5である。

日本の宣戦布告によって一気に火のついたインドシナ半島
見よ! インドシナは赤く燃えているッ!!
1941年11月20日。開戦と同時に日本領インドシナ(元・仏領インドシナ)とシャム(タイ)国境から日本&シャム軍が押し寄せる。
インドシナ戦線の始まりである。
インドシナ戦線北部、日本との国境線にはイギリスの歩兵部隊1個師団が塹壕を築いて防衛線を張っていたが、南部のシャムとの国境線はがら空きである。
そして12月3日、とうとうラングーンに上陸したオーストラリア軍山岳歩兵部隊4個師団は上陸と同時にシャム国境地帯へと進軍。未だ上陸の興奮も冷めやらぬ12月6日、侵攻してきたシャム軍といきなり激突したのだった。う~ん、間一髪である。もし、ちんたらとアフリカ派遣軍の到着を待っていたらあやうくラングーン陥落の憂き目を見るところだった。
うむ、こんなときの為に『陸軍ドクトリン』の研究(戦術研究。全部隊の能力にプラス修正)を重ねてきたのである。シャム軍などには負けていられん。とゆーわけでシャム軍をあっさり蹴散らし国境地帯へ向け密林の中へと軍を進める。
更に、我がオーストラリアはきたるべきインドシナでの戦いに備えて編成していた歩兵部隊を次々とシドニーから送りだした。
12月15日には第二陣歩兵部隊3個師団が。明けて1942年の1月1日には第三陣2個師団がラングーンに到着。
インドシナのジャングルへ分け入っていく。
険しい山岳地帯の連なる北部国境へ山岳歩兵を進め、南部の密林は歩兵部隊が進軍する。

第一目標はバンコク。シャムの首都である。

スピードが命とばかりに、連戦を重ね強行軍でバンコクを目指す。ただ、スピードを重視するものの、こちらは戦線の広さに対してどうにも寡兵。どうしても脇が甘くなる。延びきった補給線を守るのは歩兵部隊1個師団のみ。しかし、その歩兵部隊も連戦の為に『指揮統制率』(士気みたいなもの)の低下が著しい。ここを突破されるとマズイ。ズバリその危惧は的中してしまった。
その歩兵部隊目掛けて、日本同盟軍の一角を成す満州国軍が攻撃を仕掛けてきたのである!
満州国軍の強襲に我がオーストラリア歩兵師団は壊走。マズイ! 補給戦が絶たれる! と思われたその瞬間。後ろから満州軍に猛然と立ち向かう友軍が!!

ネパール王立近衛師団だ!!

峻厳なヒマラヤの地より援軍に駆けつけた友軍が高々とネパール国旗を掲げ満州軍を撃退する

ネパール陸軍、輝かしき勝利の瞬間である!

更に後方からはブータン王立近衛師団も続く。新たな友軍である!
連合の盟主たるイギリスの動きは鈍い。インド方面軍は移動を開始し始めたが到着にはまだしばらくかかる。北部の日本領インドシナ国境を守るイギリス歩兵部隊は身動きが取れない。序盤はオーストラリア軍が一人で支えていたインドシナ戦線はネパール・ブータンとの共同戦線へと拡大していったのであった。
遂にラングーンに到着したアフリカ派遣軍4個師団を加え、ジャングルの泥沼に脚を取られつつ、戦いは半年近くに及んだ。
そして遂にオーストラリア軍は4月23日、バンコクへの総攻撃を開始。シャム陸軍を粉砕し、5月5日、とうとうバンコク入りを果たしたのであった。
バンコク陥落を目前にシャムでは軍国主義者によるクーデターが勃発。オーストラリア軍の進駐と共に連合国側へ降伏したのだった。

残すは日本領インドシナである。シャム降伏に浸る余韻も無く、部隊を東進させる。

我々はインドシナ中央部から一気に南シナ海へ抜け、日本軍を南北に分断する作戦を取った。
前線で待ち構える日本&満州国軍は抵抗を示したが、開戦から半年以上が経過したこの頃になるとイギリスのインド方面軍が次々と前線に到着。数の力で日本軍を押し切った。奥深い密林に脚を取られ、進軍は遅々としたものだったがそれでも年内には北ではハノイ、南ではサイゴンを陥落せしめたのであった。

主に南部へ部隊を進めたオーストラリア軍は半島を回り込むように進撃し、日本軍をプノンペンへ追い詰める。そして年も明けて1943年5月。遂に日本軍を殲滅したオーストラリア軍はプノンペン入りを果たし、インドシナでの戦いはほぼ収束したのであった。

しかし、北部、中国との国境線上に追い詰められた日本軍は一地方に塹壕を築いて立て篭り、連合軍による攻撃をことごとく跳ね返した。この場所はこのまましばらくの間にらみ合いを続けることになる。

更に手痛いことにインドシナ戦ではダナン、サイゴン戦で沿岸砲撃に大活躍したオーストラリア海軍の主力部隊が1943年6月。バンコク湾にて日本海軍と遭遇プノンペンの仇討ちとばかりに主力艦のほとんどを撃沈され、オーストラリア海軍は事実上壊滅したのであった