『流刑民から見た世界史』 オーストラリアその8

とゆーわけでその8である。

1944年の中国併合を契機に南進を本格化させた日本軍。インドネシアの主要な島々の失陥をみて、我がオーストラリアは急遽インドシナ戦線に派遣されていた地上部隊を呼び戻し、本国の守りを固めると共にインドネシア反抗作戦の準備に入ったのだった。

日本海軍による襲撃を警戒し、全軍が本国に帰還したのは結局1944年の暮れも近い11月までずれ込んだ。
そこから反抗作戦に必要な準備を始める。

まず始めたのが機甲師団の編成
インドネシアの島々は密林ばかりなので機甲師団にとっては機動力を生かせない余り向かない地形ではあるのだが、まず歩兵に負けることは無い。更にオーストラリアのアキレス腱である労働力消費が少ないことも機甲師団編成の理由の一つである。
とにかく上陸してしまえば歩兵部隊と機甲師団の組み合わせは強力な橋頭堡となりうる。
対して日本軍は機甲師団を持っていないと言ってもいい。こちらに機甲師団があれば大きなアドバンテージになるのだ。
機甲師団の編成はベラボーにIC(工業力)を消費するが、これまで工業化に心血を注いできた我がオーストラリアには遂に機甲師団を編成する余力のあるICを確保できるまでになっていた。ICの数値が高いとこういう時助かる。

更には上陸作戦に投入する輸送艦を護衛する軍艦を用意する必要がある。輸送艦だけだと辺りを巡回する敵の駆逐艦ごときに全滅させられる可能性があるのだ。
しかし、重巡洋艦やら軽巡洋艦やらの生産は早くとも4,5ヶ月はかかる、それまで待っていられないし、機甲師団を編成している今、艦船建造に裂くICの余裕も無い。(機甲師団編成終了の後に軽巡8隻を建造したが)
とゆーわけでアメリカから買う事にする。あまっている資源やらなけなしの物資をはたいて重巡2隻、軽巡2隻を購入。これなら周辺海域を哨戒中の駆逐艦程度に負けることは無い。ただ、不幸にも空母機動部隊と鉢合わせしてしまったときは天を仰ぐしかない。

そして最後の詰めとして要塞建設である。インドネシアの島々から一番近い豪州大陸北岸の海軍基地はダーウィンのみ。ここが失陥すると攻めの面でも守りの面でも致命的になりうるのでダーウィン基地に要塞を建設。ちょっとやそっとじゃ上陸・占拠できないよう守りを固めた。
準備を進めているうちに1945年が明ける。

一方そんなこんなで我がオーストラリアが対日反抗作戦に備えて色々やっている頃、
欧州戦線は赤い嵐が吹き荒れていたのだった。
1943年の暮れにモスクワを攻め落としたドイツ軍だったが、そこまでが限界だった。
始めは膠着状態で留まっていたが、44年も半ばを過ぎると、そこから雪崩れをうって崩壊していったのである。
44年当初には優勢だった兵力がいつの間にかソ連に逆転されていた。
原因は定かではないが、おそらくドイツも石油の備蓄が尽きたのではないだろうか。
ドイツ軍は機甲師団を主力としたえらい石油を消費する陣容で戦っている。石油があれば強力この上ない軍隊ではあるがそれがなくなってしまえば後は鉄屑。どうやらカスピ海沿岸のバクー油田の攻略もままならなかったようであるしバクーを奪えなかったドイツ軍に石油を確保する手段は残っていない
かくして44年から始まったドイツ軍の崩壊はそれこそ坂道を転げ落ちるかのように戦線を西へ西へと後退させ、8月にはハンガリールーマニアが、9月にはブルガリアがそれぞれ共産陣営に取り込まれ、なんと早くも11月にはベルリン陥落
対して連合軍側はノルマンディーどころかイタリア上陸も果たせぬ体たらく
12月にはソ連の手によってローマも陥落してしまった。
かくして、ヨーロッパ大陸はほぼ赤化されてしまったのだった。
我らが連合軍は北海に艦隊を浮かべたり地中海でシチリア島イタリア軍とじゃれあったりしながら
ヨーロッパが赤く染まっていくのをただ指をくわえて見ているだけなのだった。

つーか本当にやる気無いな、こいつら。

だが、それも日本軍と戦う我がオーストラリアにとっては悪いニュースではなかった。
ほぼヨーロッパでのけりをつけたソ連は次は中国へと狙いを定め、1945年4月3日、日本に対して宣戦布告
窮するのは日本軍である。これで北のソ連軍、南の連合軍と二正面作戦に陥ることとなる。
くしくもソ連宣戦の前月である1945年3月、オーストラリアによるインドネシア奪回作戦も開始されていた。
我々にとっては日本軍の注意が北にそれてくれるのは願ったりかなったりである。

まぁ、歩兵部隊しか持たない日本がソ連に勝てるはずも無い。
つーかもうこの時点で中国大陸の赤化も決まったようなものであるが……。もう、それには目をつむろう。

かくして我がオーストラリア軍によるインドネシア奪回作戦は時たま出没する空母機動部隊に思わぬ損害をこうむったりしつつも思っていたよりも順調に進んでいったのであった。

1945年中にはジャワ・スマトラ島を奪還。46年には満を持してボルネオ島の奪回も果たした。

本来の所有者であるオランダが日本に併合されてしまったこともあり、そこは丸々オーストラリアの占領地である。とゆーかインドネシア、とっても美味しいです。
鉄やら希少資源やら石油やらがボンボン産出します。ここぞとばかり補給船団を大増員してありとあらゆる資源をオーストラリア本国へと搬入させる。資源の心配をせずに戦争ができるってすばらしい。
反対に資源供給地を絶たれてしまった日本は苦しい。当初こそ頻繁に逆上陸を企ててきたものの、やがて石油不足に陥ったのか、たまにしかやってこなくなった。まぁ、ソ連との戦いに忙しいというのもあるだろうが。

かくして我がオーストラリア軍は1946年中にはニューギニア島スラウェシ島からも日本軍を駆逐し、インドネシアの主だった島をほぼ占領してしまったのだった。
後は、こまごまとした島を残すのみである(バリ島とか西チモールとか)。
だが、オーストラリアはそこで攻撃の手を止めた。
そういった小さな島々は奪うことができても確保することができないのである。
兵力の大部分は資源を産出する大きな島の守備隊として裂かれている。この頃、豪州陸軍の総兵力は25個師団程度まで拡充されていたがその兵力では小さな島々にまで守備隊を置くことは難しい。
始めのうちは躍起になってそういった島にも攻め込んでいたのだが、よくよく考えてみると、何の資源も無ければ軍港も無い島を奪ったところで余り利益は無いのである。
そこに兵力を裂くこと自体ばかばかしいし、そういったどうでもいい島を守る為に大事な輸送艦部隊が襲われては目も当てられない。
実際この頃までに重巡部隊は全滅、軽巡も8隻沈められ、輸送艦の損失は30隻近くに達している。更にその巻き添えを食って7個師団ほどの陸上兵力が海の藻屑と消えているのである。
もうこれ以上の出血には耐えられない。これ以上戦線を広げることは難しい。
ましてや連合軍の攻勢が無い以上、このまま海伝いに日本を目指すことなどできようも無い。
他の資源供給地は連合軍のものなので攻め込むわけにも行かない。
どうすんだ? これから。

とゆーわけでこのあたりで既に我がオーストラリアの戦争はほぼ終わっていたのである。

インドネシアの資源地帯を手に入れた我々にとってもはや望みうる物は無い。
つーわけで次回、最終回。