小説 『お盆休み』 その1

 1


 蝉しぐれとはよくいったものだ。
シャワーの様に降り注ぐ、わんわんとうるさいセミの声。
俺はのんびり田んぼの畦道を歩きながらそれに耳を澄ます。耳に届く音には色んな鳴き声が混ざっている。あの音はミンミンゼミ、あれはツクツクボウシで……あの音は、なんだろう。
良く耳にする音。あの十秒くらいの間、高い音を伸ばした後、二、三秒くらい低い音で鳴く声。それを何度も何度も続ける。こんな田舎でなくても夏ならどこでも耳にするように思う。
なんだろう。あと俺の知っているセミの名前と言えば、アブラゼミニイニイゼミ、あとは……、トノサマ……。そんなのはいない。ありゃあバッタだ。なんだったろう。
 たまに帰省するとそんなことすら忘れている。確かに都会で必要な知識では無いけれど……。
 あのセミ、一体なんて名前だったろう。帰ったらじいちゃんに聞くか。

そんな他愛もない事を考えながら俺は汗をかきかき、右手に一升瓶をぶら下げて畦道をぶらついていた。
 左右に広がる青々とした田んぼとそれを囲むように横たわる深緑の山々、そして澄み渡る空と、もくもくと背の高い入道雲。笑ってしまうくらいな田舎の景色。
 でも今はもうおかしくもなんともない。こんな山間の集落でも一週間も過ごせばそれが自然に感じられてくる。先週やってきたときは余りののどかさにびっくりしたものだが。こうも慣れてしまうと今度は帰った時、都会の景色に違和感を感じるのかもしれない。
 昼下がりの強烈な日差しがジリジリと首筋や鼻先、腕を焼いている。最初はクーラーの効いたゲームセンターが恋しかったが今はそのチリチリ感すら心地良くなっていた。
 祖父と祖母の家は目の前の低い丘を迂回した向こう。今は二人とも田んぼに出て家には誰もいない。
 帰って少し昼寝でもするか。でも、その前に山下さんちのおばさんに声かけられるかな。あと香代ちゃんにも。いつものパターンで。
 俺はセミの声を聞きながら、のんびり畦道を進んだ。
 畦道を抜けると左手に丘がせり出し始め、やがてその丘に上る坂道が現れる。ここを上がりきれば祖父の家だ。額の汗をぬぐいながらそのなだらかな坂道を登る。砂利を踏んで少し進めばすぐに小さな集落が見えてくる。軒を連ねる平屋建て、手前から木田、正田、大谷、山下。皆、昔からの稲作農家だ。その一番奥まった所に村岡家、つまりは父親の実家があった。
 俺はその砂利道を進み、山下家の前に差し掛かる。と突然こちらに元気な声がかかった。
「シンタお兄ちゃん!」
山下家の庭から聞こえる女の子の声。さあ、いつものやつだ……。
 声のする方を向けば遊んでいたのか、小さな女の子が庭の芝にしゃがみ込んだままこちらを見ていた。案の定、この家の一人娘、山下香代ちゃんだった。
「やあ香代ちゃん。遊んでるのかい?」
 俺が向くと香代ちゃんはにっこり笑って短いお下げを揺らしながら、てててとこちらに駆けて来た。
「ううん! 待っとったの!」
 そういうと彼女は俺に抱き付いた。これもいつものパターン。やたらと俺になついてくる。
 まだ小さな彼女は俺の腰くらいまでしか背丈が無い。今年小学校一年生になったと聞いている。
「俺を待ってたって?」
「うん、シンタお兄ちゃん今日も遊んでくれるんよね」
 田舎なまりなイントネーション。香代ちゃんはにこにこと笑って俺のシャツをぐいぐいと引っ張った。
 俺は苦笑いで彼女の頭を撫でた。
「遊んでも良いんだけど、今日はちょっと用事があるんだよなー」
 だが彼女はまともに聞きはしない。そんなことはどうでもいいとばかりに早速俺の持っていた一升瓶に興味津々だ。
「これなぁに? お酒?」
「ああ、そうだよ。今日は後で御墓参りに行かなきゃいけないんだ」
「お墓参り!? 御盆は明日よ? お墓参りは明日でしょ?」
 彼女はさも驚いたかのように目を円くする。まあ、もっともな疑問だ。
「うん、もう明日の朝には帰らなきゃいけないからね。今日お墓参り」
「ええ!? シンタお兄ちゃん明日帰るん!?」
 俺が頷くと彼女は身体を振ってイヤイヤをした。この子に「サークルの合宿がある」と言っても解ってもらえないんだろうなぁ。
「そう、明日帰るの。昨日もその前もそう言ったじゃない」
「言っとらん! そんなこと言っとらんよ!」
「言ったってば」
 俺はなだめるように彼女の頭を撫でたが、彼女は不満そうだ。頭に乗った俺の手を掴むとぐいぐいと引っ張って、俺を山下家の庭まで連れ込んだ。
「アラ、しんちゃん。いらっしゃい」
 家の中から山下のおばさんの声が聞こえた。開いたサッシの向こうからおばさんがこちらを見ている。縁側のサッシは全部開き放たれ、部屋の中まで丸見え。風通しが良さそうだ。
「あ、どうもこんにちは」
 香代ちゃんに腕を引っ張られながら俺が頭を下げると、おばさんはにっこり笑って縁側へ降りてきた。
「ちょうど良かったわ。今スイカを冷やしとってね。これから取りに行くんやけど。……しんちゃんも食べる?」
「え? スイカですか?」
「きっとよう冷えとるわよ~」
 俺の口の中でひんやり冷えたスイカの感触が広がる。相変わらずセミは喧しく太陽はぎらぎら俺の身体を焼いている。二つ返事だった。
「ええ、是非」
「ちょっとまっとってね」
 おばさんはニコニコしながらサンダルを突っかけて庭に下りた。だがふと目を落とすと、こちらでは香代ちゃんが俺の腕を掴んだままぶうと頬を膨らませている。なるほど、彼女につれない返事をしておいてスイカに二の句も無く食い付いた俺が気に入らないらしい。
 だが彼女は怒るのもそこそこに、家の裏へ行くおばさんを見ると俺の腕を離してそちらへ駆けた。
「待ってお母さん! あたしやる!」
 彼女はおばさんに追い付くとこちらを向いておいでおいでをした。
「シンタお兄ちゃん! こっちこっち!」
 なんだなんだ? 俺は何も考えずに彼女に呼ばれるがまま後をついて行った。

 ついて行ったその先、裏庭には井戸があった。ざらざらとした目の粗いコンクリートの井戸で上にポンプと滑車が乗っている。おばさんはポンプ脇の蓋を開けると、滑車からぶら下がったロープを引き上げ始めた。
「あたしやる!」
 すると香代ちゃんがおばさんのスカートを引っ張る。何をするつもりだろう。
「重いわよ? 香代ちゃん」
「大丈夫! あたしやる!」
 そう言って腕をまくる香代ちゃん。その様子をみて俺はすぐ思い当たった。
「スイカを沈めてるんですか?」
「ええ、そうなんよ。もう冷蔵庫もいっぱいでね。でも、井戸水でもよう冷えるんよ。しんちゃん覚えとる? 昔ようやったでしょ」おばさんは俺にそう言いながら香代ちゃんにロープを引き渡す。「落とさんようにね」
「わかっとる!」
 香代ちゃんは元気よく答えるとうんと踏ん張ってロープを引っ張り始めた。でも大丈夫だろうか。あんな小さいのにスイカが持ちあがるのか?
 いざやってみると、……やはりどうみても香代ちゃんの形勢はよろしくない。一所懸命なのはよくわかるが実際は滑車がきぃきぃと鳴るばかり、なかなかお目当てのものは顔を出さない。ほら、いわんこっちゃない。
 しかしおばさんはそんな香代ちゃんを心配するでもなく、なぜか何か懐かしむような表情で見つめていた。
「そういえば、もう何年になるかねぇ……。しんちゃんも同じようにやっとったでしょ。もう随分昔のことみたいに感じるけど……」
 しみじみとした呟き。でも、その言葉に俺ははっとした。そういえば思い当たる節がある。すっかり忘れていた。まだ俺が小さかった頃の話、そんな事もあったっけ。
「もう十年以上前ですよね」
 香代ちゃんはう~んう~ん、と額に玉のような汗を浮かべながら少しずつロープを巻き上げている。
 そうだ。俺も昔同じようなことをした。踏ん張って、それでも上がらなくて、悔しくて泣きそうになって……。随分小さかった頃の話だ。今の香代ちゃんと同じくらいだったろうか。
「そうだねぇ……」
 おばさんは片頬に手を当てながら遠い目をしていた。
 少ししんみりしてしまう。もう随分古い昔の思い出だ。
「香代ちゃん。もう無理だってば。ホラ、シンタお兄ちゃんに手伝ってもらお?」
「え? 俺がですか?」
「いいじゃないの、しんちゃん。あの時も二人で上げたじゃない。今日も二人で上げてやって」
 そういえばあの時は二人で上げた……。俺一人で上げようとして、出来なくて。それで手伝ってもらって……。
 俺は一所懸命踏ん張っている香代ちゃんを見つめた。『香代ちゃん』か。今度は俺が手伝う番か。
「よーし、香代ちゃん。一緒にやろうか」
 香代ちゃんは俺の顔を見上げ、少し考えた後、しぶしぶウンと頷いた。