小説 『お盆休み』 その3

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 おばさんに別れを告げ、香代ちゃんと二人、手を繋ぎながら川へ向かう。
 炎天下はまだ続いていた。ほぼこの一週間この調子だ。今が一番暑い時期と言っても良いだろう。
けたたましくセミが鳴き、容赦ない日の光がちりちりと肌を焼く。呼吸する度に胸を満たすムワッとした熱気とその匂い、目を閉じても全身からその感覚が伝わる。その目を開けても、揺らめく陽炎と逃げ水がその暑さを訴えかけるかのように飛び込んでくる。五感全てを満たす夏。
 なんと言うか、無理やり身体からエネルギーが引きずり出されてくるような感覚、とでも言えば良いのだろうか。でも、どこか懐かしい感覚だった。
「シンタお兄ちゃん。今日も堰をつくるん?」
 もう水着に着替えてある香代ちゃんが俺の手を引きながら上を向いた。爛々と輝く瞳。
「さあ、どうだろうねぇ」
「つくろうよ! 今日は絶対向こう岸まで届くのつくるんよ!」
「はいはい」
 俺は苦笑いで香代ちゃんを見下ろした。俺を見上げる彼女の目玉はくりくりと動き回り、はつらつとしていた。
 懐かしい感覚か。今のこの子の感覚、きっと俺が小さい頃と一緒だ。この暑さに誘われて、あの頃の俺は外に飛び出した。毎日毎日外を駆けまわって、そうやって毎年ここで御盆休みを過ごした。ああ、思い出した。これが御盆休みの感覚だ。


 香代ちゃんの手に引かれながら、さっき来た畦道を戻り、県道に出る。ものの五分もかからない。県道に出ると、それを渡り、俺が酒を買った酒屋の脇から出た藪の小道に入る。そこを降りたすぐ先が山間の木々に囲まれた、静かな河原だった。
 普段なら誰かしら行楽客が居るものだが、今日は珍しく誰も居なかった。目の前を静かな音をたてて流れる川。香代ちゃんはその場に靴を脱ぎ散らかすと、裸足で河原を駆け、そのままザブンと飛び込んだ。
 いや、ザブンと言うよりバチャン、かな? ここの河原は整備されているらしく水深が香代ちゃんの膝くらいまでしかなかった。場所によっては彼女の背丈くらいの深さはあったがそこは山の子、慣れたものだ、まったく危なげない。流れの緩い速いは解っているらしく川の流れに流されてみたり逆らってみたり、まるで自分のグラウンドだと言わんばかりにキャッキャと騒いでいつものように縦横無尽に遊びまわっていた。
 俺はといえば日陰にちょうど良い按配の岩を見つけるとそれに腰掛け、香代ちゃんを見守る。ずっと日陰にある岩はひんやりとして冷たい。川の流れがつくる涼とあいまって今までの炎天下が嘘だったかのように涼しい。こうなると喧しいセミの鳴き声すら心地良いものに聞こえてくる。正に清々しいとはこのことだろう。
「シンタお兄ちゃん! 一緒に作ろうよ!」
 川に石を沈めながら香代ちゃんが手招きした。堰を作れと言うんだろう。
 やれやれ、結局やらされる羽目になったな。
 この前俺が暇つぶしにやっていたのが彼女の興味を引いたらしい。こうなったら今日もトコトン付き合うか……。
 俺は、わかったわかった。と応じながらサンダルのまま川の中へジャブジャブ入っていった。
 川でも一番浅い所に堰を作る。川幅を通して俺の足首くらいまでしか深さの無い所である。その場所では川幅もせいぜい四、五メートルくらいか。一応、岸から岸まで繋げようと思えば簡単に繋がる。だが実際に始めてみるとその間にあちらで決壊こちらで決壊と何かと忙しいものだ。その度に香代ちゃんはわあきゃあと動き回り、また石を積み直していった。
 しばらくすると俺も熱中して、どうすれば壊れないようになるか色々知恵を回し出す。上手く川の流れを操って、堰の真中辺りで流れの逃げ道を作る。上手く流れてくれればしめたものである。またその逃げ道の先を囲むように堰を作ってみたり、またまたそこから水が流れ出す先にアーチ状に塞いでみたり。まるで段々畑のように作りが大掛かりになっていく。
 もはやその頃には熱中しているのは香代ちゃんでは無く俺のほうになってしまっている。香代ちゃんといえばそんな男の土建屋ロマンは解さないとばかりに飽きて一人で泳ぎ始めてしまっていた。
 俺は作っていった堰に「一号堰」「二号堰」……などと勝手に名前をつけ、どこが決壊したぞ! どこが危険だ! 早く補修しろ! などと、いつのまにやら脳味噌の中で妄想を大いに楽しんでいたのだった。
 小一時間もしただろうか。俺の「一人プロジェクトX」が5号堰の完成でエンディングテーマを迎えた頃、俺はふと顔を上げて香代ちゃんを見た。
 香代ちゃんは下流の少し深くなった、流れの緩やかな所でバタバタと水飛沫を上げて泳いでいた。小学校一年生にしては上手いものだ。クロールだろう、綺麗なフォームで水を掻き分けて進む。こりゃ、将来は水泳選手かな? 学校でも水泳部に入って……。
 そこまで考えた時、頭の中に女の子の顔が浮かんだ。水泳部の女の子。その顔に、俺はまるで砂袋で頭を殴られたかのような重い衝撃を受けた。俺のよく知っている顔だ。幼馴染の女の子。

 山下香代……。

 俺は逃げるように川から上がった。
 何が起きたというんだろう。心臓がどきどきとして、自分が動揺しているのがわかる。河原の上に座り込み、後ろに手をつくと腕が小さく震えていた。自分でも何が起きているのかよく解らない。その間にも彼女の顔が俺の頭の中に映りつづける。

 香代……。

どうしたっていうんだ? 俺は膝を抱え込んで小さく息をつく。
 今までこんなおかしな感覚は一度だってなかった。彼女のことでこんな風になるなんて。
 香代ちゃんを見る。彼女はきょとんとした顔で俺のほうを見つめていた。じゃぶじゃぶと水を掻き分けて岸へと上がる。
「シンタお兄ちゃん。……どうしたの?」
 香代ちゃんはしゃがみ込むと心配そうに俺の顔を覗きこんだ。俺は、どう答えて良いか解らなかった。
「顔が青いよ?」
 心配そうな香代ちゃんに、俺の口は自然と開いた。
「ちょっと……、香代ちゃんのお姉さんのことを思い出しちゃってね」
 香代ちゃんは驚いたような顔をした。
「どうして? お姉ちゃんがどうしたの?」
「香代がさ。君のお姉ちゃんがこの川で死んじゃったんだなって」
 その言葉に香代ちゃんの表情が曇る。でもすぐに彼女は笑った。
「大丈夫だよ。お姉ちゃんはこの川で人を助けたんだよ。お母さんがそう言ってたよ」
「山下のおばさんが?」
「うん。だからこの川を見ても悲しくないんだって」
 そう言うと香代ちゃんはもう大丈夫だと思ったのかまた川に戻ってしまった。
 俺は彼女の残した言葉に半ば呆然としながら川面を見つめた。
『お姉ちゃんはこの川で人を助けた。だから悲しくない』
 何故かその言葉が心に引っかかった。まるで喉に刺さった魚の小骨のようだ。飲み込めそうで、飲み込めない。
 何故だかは解らなかった。だが、その言葉が自分でも判断に困る『何か』を残した。
 また彼女の顔が頭の中に浮かんだ……。

 俺の幼馴染だった山下香代はこの川に流されて死んだ。正確にはここではなく、しばらく下流にいった街の方だったと聞いている。そこでおぼれた子供を助けようとしたのだそうだ。彼女は水泳部期待のホープで泳ぎに自信もあったのだろう。それで飛び込んだ。
 ……いや、香代ならそんなことは考えないか、きっとおぼれた子供を見て、いてもたってもいられず飛び込んだのだろう。彼女らしいと言えばらしい。
 香代はその子供を助けはしたが自分は深みにはまってそのまま流されてしまった。しばらくして彼女は救助されたがその後、病院で息を引き取ったらしい。
 そんな話を聞かされていた。
 だが、そんなことは解り切っていたし、ほとんど思い出しもしなかった。この川に来ても、昨日、その前だってこんな風にはならなかった。……それが今ごろになって何故……。香代の事はほとんど考えなかったはずなのに。
 胸が締めつけられる。俺は気分が悪くなって膝の中に頭をうずめた。
 俺が何がなんだかわからずにただ戸惑っている間、香代ちゃんは泳ぎに飽きたのか岸に上がって石をひっくり返したり河原の砂利をいじったりしていた。しばらくして俺の方も少しずつ落ち付きを取り戻してくる。すると茂みに近い河原の隅のほうから香代ちゃんの声が聞こえた。
「シンタお兄ちゃん! 見て見て! 死んだ蛇がおるよ!」
 ……まったく……。彼女はお構いなしだな。俺は苦笑いで彼女の方に向いた。彼女は興奮した様子で俺に手招きをする。
「早く早く!」
 死んだ蛇だなんて、そんな急がなくても……。 俺は重い腰を上げて、仕方なく彼女の手招きするほうへ歩いた。
「そんな蛇の死骸が珍しいのかい?」
 そう言って、しゃがみ込んだ彼女の後ろに回る。彼女がじっと見つめているものをよく見る。果たして、それは蛇の死骸ではなく、脱け殻だった。
「ああ、こりゃあ死骸じゃないよ。脱け殻だよ」
 そう言うと香代ちゃんは不思議そうに後ろの俺を見上げた。
「ヌケガラ?」
「そう、脱け殻。蛇が脱皮したあとだよ。ほら、セミの脱け殻と一緒だよ」
「蛇も脱皮するん!?」
「そうだよ、蛇は大人になるまで何度も脱皮するんだ」
「ふ~ん……」
 香代ちゃんはそう呟くと、干からびて蟻のたかっている脱け殻をしばらく見つめていた。
「ねえ、シンタお兄ちゃん」
「なんだい?」
「蛇はなんで脱皮するん?」
 素朴な疑問だった。でも一番答えにくいのもこの手の疑問だったりする。俺は少し考え込んでしまった。
「う~ん、なんて言うんだろうなぁ。成長するのに邪魔になった皮を脱ぐんだよ」
 こんな言い方で彼女にわかるだろうか、自分でも説明になっているのかどうかあやしい。と、その時、違う言い回しが閃く。
「そうだ、香代ちゃんも小学生になったら古い服はちっちゃくて着れなくなったでしょ? だから蛇も成長したら古くてちっちゃくなった服を脱ぐんだよ」
 我ながら上出来な例えだ。これなら小学生にも……。だが、香代ちゃんはまだ納得していないようだった。
「じゃあ蛇も小学生になったら脱皮するん?」
 思ってもいない突っ込み。俺が言葉を失っていると、彼女はそう言っておいて「あれ? 蛇は学校なんて行かんよね」と続ける。
「蛇はいつ脱皮するんやろか……」
 そう呟く香代ちゃんに俺はなにも答えられなかった。
 蛇はいつ脱皮するんだろう。そんなこと考えた事も無かった。
 蛇は自分が脱皮する時が解っているのだろうか。よ~し、これから脱皮するぞ~、という具合に。それとも自分でも気付かぬ内に脱皮が始まってしまうのだろうか。そして気がつくと以前より大きくなっている。……でもそれも嫌だなぁ。気がついたら身体が割れてるなんて、それで中から新しい身体が出てくる。なんかスプラッターみたいだ。
 俺がそんなことを考えていると突然、香代ちゃんは俺の顔を見上げた。
「じゃあ、この蛇、まだどこかで生きとるんよね!」
 なにやら嬉しそうな顔で俺を見つめる。俺は少し戸惑いながら答えを返した。
「そりゃ、何か起きない限り生きてるだろうねぇ。まだ日もたってないみたいだし」
 蛇の脱け殻はほとんど完全で虫にも食われていない。
「おもしろいねぇ!」
 香代ちゃんはそう言って目を輝かせた。