小説 『お盆休み』 その4

 それから彼女はまた川に飛び込んで行った。よくもまぁ元気が尽きないものである。もう帰ろうか、と声をかけてみたがどうやらその気は全くないようだった。
 俺は仕方無しにもう少し彼女に付き合う事にした。適当な木陰を見つけて寝そべる。そして手近に適当な石を見付けるとそれをちょっと高めな枕代わりにして、俺は川遊びに興じる香代ちゃんを眺めた。
 本人にその気はなかったろうが香代ちゃんのおかげで少しは気がまぎれた。さっきの息苦しさからはだいぶ解放されつつあった。安心したのか、俺は水飛沫を跳ね上げてはしゃいでいる彼女を眺めながらウトウトし始めていた。
 その辺りから俺の意識は曖昧になっていった。

 目を開ける。傾いた日に照らされ、金色に輝く木漏れ日をまとった木の枝が頭上を覆っていた。
 涼しい風に優しい日差し。川のせせらぎが聞こえる。やたら気持ちが良い。また目を閉じる。こんな心地良さは滅多にない、もっと眠っていたかった。
 止めど無く響くせせらぎ、静かな音。
 さっきとは大違いだな。さっきは香代ちゃんがやたらはしゃいでバタ足してみたり岩から飛び込んだり随分飛沫を上げていた。その点今はせせらぎしか聞こえない。
 ……せせらぎしか聞こえない? ……香代ちゃんは?
 俺はハッとして目を開けた。香代ちゃんはどこ行ったんだ!? 思わず血の気が引いた。焦って顔を上げる。
 と、彼女はすぐに見つかった。なんのことは無い。バスタオルに包まれて、いつのまにやら俺の腕の中で眠っていたのだ。俺の胸元ですやすやと寝息を立てるその顔に俺はひとまず安心して大きく息をついた。そしてまた石の枕に頭を預ける。
 もう日が暮れかけているようだ。あれほど喧しかったセミの音もいささかトーンを落とした気がする。代わりに静かな夕方の虫の音色がそれに加わっていた。何時ごろだろうか。まだ日が暮れるにはもう少しありそうだが。
 そういえば、早く伯父さんの墓参りに行かなくちゃ。そう思ってまた顔を上げる。香代ちゃんは……、どうやらぐっすりのようだ。起こすのも気が引けるが、そうしないわけにはいかない。俺は彼女の体を揺すった。
「香代ちゃん。ほら、起きて。帰るよ」
 彼女は眠そうに自分の目を擦る。
「ほら、もう日も暮れるし、帰らないと風邪ひくよ?」
「もう帰るん?」
 香代ちゃんは眠そうな目を瞬かせながら顔を上げる。
「そう、帰るよ」
「………」
 彼女はその場に座り込みボンヤリとしている。俺は傍らに揃えてあった彼女の靴を取った。
「ほら、靴履いて。帰ろ」
 返事がない。香代ちゃんは座りながら、早速こっくりこっくりとやっていた。
 こりゃダメだな。俺は仕方無しに立ち上がると彼女の前でしゃがんだ。
「ほら、帰るから俺に負ぶさりな」
 そう言って振り返りながら彼女に手を差し出す。彼女はしばらくうつらうつらしていたが、やがて夢遊病者のように両手を差し出すと、そのまま俺の背に負ぶさった。
 俺はバスタオルと香代ちゃんの靴を取るとそのまま立ち上がった。相手は小学一年生。軽いものだ。二、三度具合の良いように負ぶさり直すと、俺は県道に出る苔むした階段を昇った。

 彼女の寝息を首筋に感じる。きっと遊び疲れたのだろう、香代ちゃんは俺の背中でもぐっすりだった。
 茂みを抜け、県道に上がると一気に世界が明るくなる。半ば寝ぼけていた俺の頭もその明るさですぐに目覚める。俺は全く人通りのない県道を渡り、田んぼの畦道に入った。その間も香代ちゃんは相変わらずだ。
 俺は彼女を背に感じながら今日の事を考えていた。河原でのあの出来事。今までまったくといって良いほど思い出さなかった香代の顔。そして一緒に表れた、なんとも言えない、色々なものが混ざり合ったような胸を締め付ける感覚。嫌な気分だけとは言わないが、正直、余り思い出したくないものの類だった。どうして思い出したくないのか、それすらも分からない、どうも扱いに困る感覚だった。
 どうして今日に限って……。
 そんなことを考えていると背中の香代ちゃんが、ううん、と唸った。何だろう、何か悪い夢でも見てるのかな? それとも……。
 やはり今日の事は香代ちゃんと一緒だったことが大きかったのだろうか……。でも昨日までだってこの子とは一緒だったし、川へも行った。別段普段とは変わらなかったはずだ。
 どう考えてもしっくりいくような答えは出てこなかった。
 畦道を抜け緩い坂道を登り、山下家の前まで辿り付く。俺は入り口の石畳を踏むと、玄関ではなくそのまま庭へ出た。
 庭に出るとそのまま縁側に腰掛ける。
「どうもー。おばさん、帰ったよー」
 家の奥にそう声をかけながら俺は香代ちゃんを部屋の中に下ろした。畳の上にコロンと転がった香代ちゃんは、しかし何も無かったように眠りこける。よっぽど疲れたんだろうな。
「はいはい」
 するとすぐに奥からおばさんがやってきた。おばさんはぐっすりな香代ちゃんを見つけて、まあ、という顔をしたがすぐに笑って彼女の脇に正座した。
「ありがとねぇ、しんちゃん」
 俺はおばさんにバスタオルを手渡す。おばさんは礼を言いながらそれを膝の上でたたみ、香代ちゃんの身体を揺すった。
「ほおら、香代。こんな格好で寝ちゃいけんよ。はよシャワー浴びて服着なさい」
 起きようとしない香代ちゃんをおばさんはしつこく揺する。香代ちゃんはしばらく粘っていたが根負けしたらしく、ねむい~、と不機嫌そうに呟いてから飛び起き、バスルームの方へ走って行った。
「なんだ、まだ元気じゃないか」
 俺は香代ちゃんが凄い勢いで走って行ったのにあきれて呟いた。それを聞いておばさんはくすりと笑う。
「子供はどんなに疲れとってもどこかに元気を残しとるもんよ」
 俺はその言葉に、もっともだ、と思って笑った。この一週間、その元気にどれほど振り回されてきた事か。
「しんちゃん、ホントに毎日毎日、香代の相手してくれてありがとね」
「いえ、いや、まあ、……滅多にない経験をさせてもらいました」
 そんな言葉が口を突いて出る、ちょっと皮肉めいていたか? でもおばさんは少しびっくりしたような顔をした後、けらけらと笑い出した。
「そうかもしれんねぇ。ウチでもあの子には手を焼いとるんよ。お転婆もんで、頑固やしねぇ。やっぱり……、お姉ちゃんに似たのかもしれんね」
 そう言っておばさんは何か思い出すように部屋の仏壇を見つめた。俺もチラリとそちらを見る。だが、どうも具合が悪くて視線を外に逸らした。いま、香代の事は余り思い出す気になれない。
 そろそろ夕焼け空が広がる頃だ。夕方になって少しずつ風が出てきたようだ。時折、軒にぶら下がった風鈴が澄んだ音を響かせる。俺はセピア調に染まった外の景色を眺めながら、ふうと小さくため息をついた。また、胸が苦しい。
 するとどたどたと音をたてて服を着た香代ちゃんがまた走ってきた。彼女は縁側に寝そべるとおもむろに俺の身体に頭をうずめる。まるで膝枕だ。俺はびっくりして彼女を見る。だが香代ちゃんは目を閉じてもう眠る態勢に入ったようだった。
「こら、香代。ちゃんとシャワーは浴びたの?」
 俺の股間に頭をうずめ、香代ちゃんは、
「後で浴びる」
 と、応じた。
「ちょっと香代ちゃん」
 俺は戸惑いながら彼女を揺する。が、香代ちゃんはお構いなしに俺の腰にしがみつき、そこをどこうとはしない。困った顔でおばさんを見る。おばさんは口もとに手を当ててくすりとやった。
「この娘、甘えとるんよ。……すっかりしんちゃんになついてしもうたね」
 笑うおばさんに俺は苦笑で答えた。
「ええ、まあ、そのようです。なついてもらえるのは、嬉しいんですけど……」
 言葉が尻すぼみになる。俺は膝の上で目を閉じる香代ちゃんを見つめた。
シンタお兄ちゃん、シンタお兄ちゃん、と慕ってもらえるのは確かに嬉しい。
 でも、この子の場合それがいささか尋常でないような気もする。俺に心を開いてくれるのはいい。でも何故俺に? しかも俺とこの子はこれまで一度会ったことすらない。そういえば初めて会った日からそうだった。
 この家に挨拶にやって来た日、俺がおばさんと挨拶を交わすのを見て香代ちゃんは、見ず知らずの俺に全く怯んだ様子も見せずに屈託無くぺこんと頭を下げた、彼女はまるで何かを待っていたかのように嬉しそうに笑って俺に抱き付いてきたのだ。まるでそうする事がさも当然の様に。あの時は『子供は無邪気だな』なんて軽く受け止めていたけれど、今思えば少し異様な気もする。初めて出会う大人にこうも無邪気になつくものなのだろうか……。
 そんなもの思いにふけっていると緩やかな風に煽られチリンと風鈴の音が響いた。俺はその澄んだガラスの音色に現実へ引き戻された。俺の膝の上では香代ちゃんが寝息をたてている。おばさんはそんな様子の香代ちゃんを優しい目で見つめていた。
「この子も寂しいんやろね、夏休みやし、友達がみんな出掛けとるから」
「………」
 俺とおばさんは少しの間、なにも言わずに香代ちゃんを見つめていた。
 また風鈴の音が響く。
「さて、と」
 俺は気を取りなおして息を一つついた。残った仕事を片付けなければならない。
「そろそろお墓参りに行くん?」
「ええ、早くしないと日も暮れますし」
 俺は答えながらぐっすりな香代ちゃんをそっと畳に下ろした。
「じゃあお酒、取って来ようかね」
 そう言って立ち上がろうとするおばさんを俺は制する。
「いや、自分でやりますよ」
「そう? じゃあお願いできるかしらね」
「はい、それじゃあ」
 そう答えて俺は香代ちゃんに一瞥をくれる。彼女はぐっすりだ。
「しんちゃん。明日はいつ帰るん?」
「ええ、朝九時のバスで出ます」
「だったらその前にウチにも顔を出してね」
「え? なにかあるんですか?」
「お土産があるんよ。忘れんでね」
 俺は挨拶を済ませると裏の井戸に回った。