小説 『お盆休み』 その5

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 滑車がキイキイと鳴く。井戸に沈んだロープを手繰り寄せながら俺が思い出していたのは、香代の事だった。
 もう十年以上も前の話。ここの井戸でよく遊んだ。
 白い日の光を受けてキラキラと跳ねた井戸水が輝く。ポンプをやたらガチャガチャ動かして裏庭を水浸しにしたのは一度や二度では無かったろう。二人で大騒ぎで水を跳ねまわし泥だらけになった。
 でもその想い出に何故かチクリと胸が痛む。なぜ、痛むのだろう。今日の俺はどうなってしまったのか。そんな遠い昔の事、今更思い出すなんて。
 一升瓶を引き上げ、一旦家に帰る。どうやら祖父母はもう帰ってきている様だった。家の前まで来ると祖母が夕食を作る音が聞こえた。
 線香とライターを取ろうと俺は縁側から家に上がった。居間でテレビを見ていた祖父の声がかかる。
「おおう、シンタ。墓参りには行ったのか?」
「これから行くとこだよ。香代ちゃんにつかまっちゃってね」
「もうすぐ晩飯だぞ」
「ああ、すぐ帰るよ」
 俺は仏壇から線香とライターを拝借するとすぐに家を出た。

 西の空には夕焼けが広がっていた。寺に向かう坂道を砂利を鳴らしながら昇っていく。橙色に染まる砂利道、その右手に広がる棚田は金色に輝き、その向こうに横たわる山がそれを覆い尽くそうと小豆色の影を伸ばす。左手に広がる森の中では光と影、その金色と黒のまだら模様が風に煽られ微かに踊る。夕日の柔らかな光は回りの全てを様々な色で染めていた。
 俺はその彩りを味わうかのようにまだ昼間の暑さの残る空気を大きく吸い込む。
 その時、懐かしいものが目に飛び込んだ。
苔むした、石造りの鳥居。
 少し行った先の左手、砂利道に臨む形で鳥居が立っている。俺はその前で一旦立ち止まり、そこから上へと伸びる石の階段を見上げた。
 この上の様子が目に浮かぶ。三十段ほどある階段を昇り、神社の境内に出る。正面にはこじんまりとしたお社が祭ってあり、左手には、しめ縄の捲かれた杉の御神木。右手に小さな小さなお稲荷様が祭られているはずだ。
 俺は懐かしさに誘われて石段に一歩足をかける。七年ぶり。鬱蒼とした木立に囲まれ、暗く苔むし、いつもひんやりと冷たい石の階段。昼間ですら暗いのだ、夜になれば……。そう考えた時、小さかった頃泣きながらこの階段を降りた自分が目蓋の裏に蘇った。

 ああ、あれはいつだったろうか。
 随分と忘れていた恥ずかしい、遠い昔の記憶。
 頭の奥底にしまわれていた想い出が蘇る。
 俺は小学校三年生だったろうか、四年だったろうか。どちらにせよいっちょまえの口を利き始めた歳だったような気がする。偉そうに幽霊なんかいない、恐くないと言った俺は肝試しに夜の神社へ昇り、そして泣きながら帰った。途中で転んで膝小僧をすりむいた……。その事を思い出すといつの間にか俺の手はその時の膝を掻いていた。
 でも、そんな事になったのも全部は俺のせいじゃない。そう自己弁護する声が聞こえた。
 そもそもあの時は香代が悪かったのだ。
 とっぷりと日も暮れて真っ暗な中、一緒にお社まで行った俺を置いて香代は急に走り出した。俺を罠にはめたのだ。真っ暗な境内に取り残され、只でさえ心細かった俺はもうパニックになって香代を追った。一目散に走る香代にはなかなか追いつけない、まったく近づかないその背中を見て、いつの間にか俺は泣きながら走っていた。香代を追って俺は文字通り転げる様に階段を降りた。何度も転びそうになったが子供心に『転んだら死ぬ』と訳のわからぬ強迫観念に駆られて必死に駆け降りた。
 膝をすりむいたのは階段を降り切ったちょうどその時だった。最後の最後で足を踏み外した俺は勢いそのままに砂利道へと転んだ。そしてその場に転げたまま立ち上がりもせずびーびー泣いたのだ。
 今思い出しても恥ずかしくて顔から火が出る。
 戻ってきた香代は最初こそ笑っていたがやがて悪いことをしたと思ったのか、俺を立ちあがらせると膝小僧の擦り傷を見てくれた。彼女の持っていたハンカチで流れる血を吹き、擦り傷にふうふうと息を吹きかけてくれた。そして彼女は俺を慰めながら手を引き、手を引かれた俺は泣きながらこの砂利道を帰った。
 石段を見上げながら、昔やった事のバツの悪さに思わず照れ笑いが浮かぶ。いい歳こいた男の子が同じ歳の女の子に慰められていた。
「まったく、やってくれたよ……。」
 俺は小さく呟いていた。今思い出しても少し恨めしい。当然、この事は俺と香代の二人だけの秘密だ。
 今まで忘れていた、懐かしい想い出。でも、やはりこの想い出もまた俺の胸につっかえた。
 一体何がいけないのか、やはりよく解らない。胸の奥、鳩尾の辺りをぎゅうと強く掴まれるような嫌な感覚。
 俺はその気持ちを追い払うように首を振ると石段に乗せていた足を離し、砂利道へと戻った。
 早く行かなければ日が暮れてしまう。自分にそう言い聞かせ、歩みを進める。嫌な感覚はしかしまだ胸を締め付けていた。そして、一度浮かんだ香代の顔もなぜか容易には振り払えなかった。
 いつの間にか右手に細々と続いていた棚田も消え、砂利道の両側は鬱蒼とした森に囲まれていった。
 香代の記憶は道を急ぐ最中も消えて行くどころか、むしろどんどん鮮やかさを増す。香代の色んな顔が頭のそこかしこに浮かんだ。
 夏ごとに起こった些細な事件や今だから解る変化。そして他愛の無いじゃれ合い。だがその想い出が蘇ってくるにつれて、その重みが増すかのように俺の胸の苦しみも切なくなっていく。
 風に揺れるすすき、夕日に照らされた道端の小石、ざわりと音をたてる雑木林、俺の身の回りにあるどんなものにも彼女の想い出は残されていた。
 俺の中にこれほど多くのものが潜んでいたのか。今更ながらそう思う。きっと今までは頭の奥底にずっとしまわれていたのだろう。でも、本当はもっと俺の頭の片隅で小さくじっとして消えて行くのを待っていて欲しい。今となっては良い想い出かどうかも定かでない。
 道と森の間に古ぼけた細い電柱が並んでいる。ひなびた木製電柱の列。そこにも記憶は残っていた。

 あれは、後に香代が死んだと知る最後の夏だったろうか。

 電柱の列に渡されたロープに無数の提灯が並ぶ。下で威勢の良い声を上げるテキヤのライトとは違い、和紙を通して洩れるぼんやりとした明りを俺は眺めていた。
 あの日は夜祭だった。
 俺はあの日、香代と一緒にこの道を歩いた。もう中学生になって、親が居なくても俺達だけで夜祭に行けるようになったのが誇らしく、本当に嬉しかった。それは香代も同じようだった。神社で盆踊りに興じた俺達はいつもより少し興奮気味だった。そしてこの道を歩き、射的をしたり綿菓子を舐めたりした。祭りを満喫していた。どんなものでも楽しかった。
 輪投げ屋で俺が最後の輪をエッフェル塔から外したとき、
「蛍を見に行かん?」
 そう言ったのは香代だった。この道をしばらく行くと湧き水の出る小さな池に辿り着く。香代はそこへ行こうと言った。俺は二の句も無く、俺も見たい! と言った。
 砂利道を真っ直ぐ進み、神社から離れるといつの間にか辺りのテキヤは姿を消し、祭の喧騒は遠ざかっていった。気が付けば頭上でぼうと優しい光を発していた提灯も途切れていた。俺と香代は月明かりを頼りにたわいのないおしゃべりをしながらこの道を並んで歩いた。
 しばらく行けば小さく静かなせせらぎが聞こえてくる、下の棚田へと降りていく湧水のせせらぎだ。砂利道と平行して流れるそれを遡った所に湧水池はあった。

 そうか、七年ぶりなんだな。
 俺は砂利道の行き止まりにある開けた場所に辿り着いた。視界の隅に小さな池があった。木立に囲まれた小さな池は日暮れ時の赤い空を水面に映し、緋色にキラキラと輝いていた。
 俺はその場に立ち止まり、遠巻きにその池を見やる。じっと見ているとその池のほとりに七年前の俺と香代が立っているような気がした。

「しんちゃん! ホラ見て!」
 香代は少し興奮した様子で前を指差した。池を挟んで木立に囲まれた真っ暗な宙に、無数の光が舞っていた。幻想的だった。小さく声を上げて俺もそれに見とれる。二人でしばらくその自然の美しい輝きに見とれた。
 夜空にはポッカリと穴でもあいたように真っ白な月が輝き夜空を藍色に染めている。気まぐれな風に吹かれて遠いお囃子の音が微かに聞こえた。鯉が口を出したのか池の中でぽちゃりと水音が響く。ちろちろと鳴る小さなせせらぎ。そして目の前に広がる蛍の舞い。
 染み入るような夜だった。
 俺はどうにも嬉しくなって香代に向いた。この喜びを共有できる人間が隣にいることが嬉しかったのだろう。笑ったまま香代の横顔を見つめる。だが、その時飛び込んできた光景に俺のそんな子供じみた感動はすぐに消し飛んだ。
 月明かりの中に立つ香代。
 藍染めの浴衣から覗くその肌が白い月の光にしっとりと輝いている。背中まで届こうかという艶のある長い髪、すらりとした立ち姿の中にも女性らしく丸みを帯び始めた身体。彼女は胸の前にきれいに両手を添え、潤んだ瞳で蛍を見つめている。
 綺麗だった。
俺はただ、彼女に見とれた。
 その時が初めてだったろう、女の子を綺麗だと思ったのは。訳もわからず胸が熱くなった。胸を鷲づかみにされた、といえば良いのだろうか、まるで天にも昇るような気分で意識が遠くなった。でも、心地良かった。