小説 『お盆休み』 その6

 七年前の想い出だった。
 湧水池から目を逸らす。
 俺はその記憶を振り払い、左手に続く低い石垣を眺める。そこが目的の寺だった。
 全く人気の無い境内に上がるとひなびた仏殿の裏側に広がる墓地が見えた。仏殿の脇で手桶に水を汲み、その中にひしゃくを突っ込む。村岡家の墓参りは久しぶりだったが身体が覚えていた、俺は特に苦も無く目当ての墓地を見つけた。
 墓石にひしゃくで水を浴びせ、ポケットに突っ込んでいた箱から線香を一束取りだし、火をつけて香炉に供える。持って来た一升瓶を適当な場所に置いて俺は手を合わせた。
 これで用事は終りだった。これで今日の仕事、いや、それどころかこの夏、父の実家に帰った目的は果たされた。この為に来たのか、そう思うと俺は何やら妙な虚脱感に襲われた。
 たかだかこんな事をする為だけにはるばる東京からやって来たなんて……。
 そう思うと何やら無性に腹が立つ、この為だけに行きたくも無かったのにこんな田舎まで来る羽目になったのだ。何となく、回りの人間に合わせてここまでやってきた。でも本当は帰ってきたくなど無かったのだ。
 嫌な思いをするのは解っていたのだから……。
 いや、解ってなどいなかった。ただあったのは漠然とした不安だけだった。
 忘れていた過去の出来事。それがぶり返す恐怖。意識はしていなかった。俺は無意識にそれを恐れていたような気がする。
残った手桶の水を全て墓石に浴びせ、その場を後にする。しかしその間もずっと胸の息苦しさは続いていた。いや、息苦しいなんてものじゃあない、今はもうそれがどんどん膨らみ、かきむしられるような痛みが俺の胸を締めつけていた。
 想い出なんか、重苦しいだけだ。
 どうすれば良いのか自分でも解らない。俺はあてどなく墓地をふらついた。
 真新しい墓石が俺の目に飛び込んできたのはその時だった。
『山下家』
 そう刻まれた墓石が俺の前に鎮座していた。俺は何を思うでもなく吸い寄せられるようにその前に立った。

 『山下家』とある墓石の側面には六年前の春の日付が刻まれている。この日に建立したと言う事なのだろう。
 ふと、傍らの墓誌へと目をやる。山下家の先祖の名が代々刻まれている。
 その最後だった。日付は七年前の九月。
『山下香代……享年十四才……』
 その文字が目に入った時、だが俺の頭は真白になった。
 そのまましばらく立ち尽くす。そして、ぼんやりと墓石に目を戻すと、その下を見つめる。
 そこに香代の遺骨が納められているはずだった。
 遺骨……、骨になった香代。
「お前、死んじゃったんだよな」
 そんな言葉が勝手に口を突いて出た。
 再び墓誌を見る。やはりこうある、『山下香代……享年十四才……』。当然のものが当然の場所に刻まれているにもかかわらず、衝撃だった。
 いや、当然なものか! 香代はずっと、ずっと……。
 そう叫んでいる自分がいた。そう、それが本当の自分だ。香代はずっと、ずっと生き続けていた。『死んだ』というのはただ言葉の中でだけ、本当の香代はずっと生きていた。
 そうだ、俺は本当は認めていなかった、香代が死んだことを。
 だが、今これを目の前にして初めて解った。
 変え難い、どうにもならない事実だった。
 香代は死んでしまったのだ。
 体から力が抜ける。俺は尻餅をつくように墓地の囲いに腰を下ろした。その瞬間、俺の胸の奥に混沌として詰まっていたわだかまりがすうっと消えて行くのを感じた。
 なかば放心状態で遺骨が納められた場所を見つめる。今まで胸の奥にずっとしまい込まれた想い出の数々。あれはなんだったのだろうか。
 微かだが根の深い胸の痛み。なんのために……。
「まったくもって……」独りでに口が開いた。「ずるいよな、香代は」
 死んじゃうなんて。俺は一体どうすりゃ良いのさ。
 俺にばっかりこんな思いをさせて……。
「俺さ、お前のこと、好きだったんだぞ……」
……今更言っても仕方ない事だけど。そう言おうとしてその言葉は口に出なかった。少し空しくて、俺は笑った。
 その時、ひゅうと音を立てて俺の回りを風が舞う。その風はまるで俺を慰めるかのように優しく頭を撫でて消えた。
 
 帰る頃にはもう赤く染まっているのは西の空だけで東の空は蒼く沈み、星が光り始めていた。
 あの日の帰り道。
 俺は香代の顔を正視できないでいた。頭に血が上ったようにぽっぽとしてどうにも堪らなくなる。
 あの時は二人とも無口だったように思う。
 ……そうだ、よく喋る香代もあの時は黙りこくっていた。
 俺と肩が触れたりすると小さく声を上げてしおらしく身じろぎしていた。あの時は自分の事が精一杯で気が回らなかったけれど。
 俺はときおり香代の横顔をちらと覗き見ていた。そうせずにはいられなかった。本当はじっと見ていたいのだが何か悪いことでもしているような気がしてそうできなかった。
 そんなもじもじとしたことを繰り返しているうち、やがてふと、お互いの目が合った。
 俺もびっくりしたが香代はもっとハッとしたような顔をした。すぐに目を伏せた顔は確かに赤らんでいた。俺も気まずくて俯いた。
 そういえば、そんなことがあったよな。
 俺は紫色の空を見上げながら思わず苦笑した。
 懐かしくて恥ずかしい。これも香代と二人だけの秘密だな。
 あの時は二人で肩を寄せてこの道を帰った。もう、それだけで充分だったのかもしれない。


 その日の夜はまた祖父と酒盛りになった。いつもは及び腰の俺だったが今日は何故か調子が出てしこたま飲んだ。祖父が十時頃にダウンして床に付いても俺はしばらく手酌で飲みつづけていた。すこぶる調子がよかった。
 真夜中を過ぎ、さすがに眠くなった俺は火照った身体を冷やそうと縁側に出た。
 寝る前に一服。
 荷物の中からごそごそとタバコを取りだし、ちゃぶ台から灰皿を引き寄せる。
 フィルターを咥えて火をつける。煙の味が身体に染み渡った。
 赤く焼ける先端から伸びる一本の煙。やがてそれはフワフワと揺らめき、暗い夜空に吸い込まれていく。
 もう四、五年になるか?
 俺は不確かに消えていく煙を眺めながらこれと付き合い始めた頃の事を思い出していた。
 高校に入るかその前だったか、その頃から俺はもうこれを咥えていた。何かあの時期特有の鬱屈とした気持ちを持て余していたんだと思う。でも今思えばやはり、その気持ちの根っこには香代がいた。
 香代が死んだと聞いてピンと来なかったのは確かだが、それはきっとハナから聞くまいとしていたのだ。俺はその事から目を逸らすように勉強に打ち込んだ。そして勉強して学校で一番になって、進学校への入学も決まり……、だが満たされなかった。なんの目的も無い勉強ほど空しいものは無い。
 ぐれるほどの度胸もなく、そう思えばこれはそんな俺のお慰みだったのか。
 しばらくぼうっとしているといつの間にかタバコの先は無くなり、フィルターの焼ける嫌な匂いがしていた。俺は焦ってそれを灰皿に押し付けた。
 すると耳元にプ~ンという嫌な音が響く。蚊だ。
 しまった、網戸が開けっぱなしだ。
 俺は急いで縁側から立ちあがると網戸を閉めた。耳を澄ませると、やはり部屋の中でもプ~ンと音はしている。しまったなぁ、蚊取り線香でも焚くか。
 仏壇の引出しを開ければ目当てのものはすぐに見つかった。
 俺がそれを取りだし、火をつけたその時。
 隣の家から子供の泣き声が聞こえた。
 俺は思わずそちらを見つめる。網戸越しに見える生垣を挟んですぐ隣の家だ。その泣き声に耳を済ますと、やはり、香代ちゃんだった。
 もう夜泣きをするような歳じゃないだろうに。恐い夢でも見たのか? それともおねしょ? その部屋の電気がつく。音を聞いておばさんが起きてきたのが解る。やがて、香代ちゃんの泣き声は治まっていった。