小説 『お盆休み』 その7

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「おはようございまーす」
 蝉はもう鳴き始めていた。
 俺は山下家の玄関に立つと、引き戸に手をかけてから思い直し、そのまま庭へと回った。
「おはようございます」
 そう言いながら縁側の方を覗き込む。すると、畳に座り込みテーブル向かって何か書き物をする香代ちゃんが目に入った。
「香代ちゃん、おはよう」
 そう声を掛けると、しかし香代ちゃんは、んん、と小さく答えただけで何も言わなかった。どうやら目の前のそれに随分と集中しているようだ。
「あらしんちゃん、おはよう」
 返事を返したのはおばさんの方だった。声がして奥から前掛けで手をふきながらおばさんが現れた。
「待っとったのよ、ささ、はよ上がって」
 俺はどうも、と頭を下げ、縁側から畳に上がった。
「香代ちゃん、何やってるの?」
 香代ちゃんが何やら懸命に書いているものを俺は覗き込む。
「いけん!」
 すると香代ちゃんはパッとそれを手で覆う、どうやら見せたくないようだ。見たところ学校の宿題でも無さそうだし、なんだろう。
「香代ちゃんはね、しんちゃんに手紙を書いとるんだと」
 おばさんはニコニコしながら香代ちゃんの隣に座った。
「どお? 上手く書けた? 見せてごらん」
「いい! 見せんでいい!」
 香代ちゃんは嫌がってその紙を胸元に押し隠す。おばさんは苦笑して俺に向いた。
「さっきからこの調子なんよ。香代のことだからまともに書けるとは思えんのだけどね」
「俺に手紙ですか?」
「そうなんよ、今朝になって急に『手紙書く』なんていいだしてね。今まで勉強で字を書くのすら嫌がっとったのが急に手紙だなんて、私もお父さんも目を回しとるんよ」
「どういう風の吹きまわしなんでしょう」
「さあ、解らんけど、この子がこんなに一生懸命やっとるんやからそれはそれでええと思っとるんやけど」
「はあ、そうですか……」
 まったく、この子の考えていることはよく解らない。理解することを諦め、何を思うとも無く香代ちゃんを見つめていると、そうだ、とおばさんが手を叩いた。
「しんちゃんにお土産があるんやったね、ちょっと待っててね」
 と言っておばさんは奥へと消えて行く。部屋には俺と香代ちゃんが残された。
 香代ちゃんは上手くいってないようだ。書いては消し書いては消しを繰り返している。
 俺に手紙を書いてるらしいけど、いったい何を書いてるんだろう。しげしげと眺めていると香代ちゃんはじろりと俺を睨みまた紙を手で隠した。
「わかったわかった、もう見たりしないよ」
 俺は苦笑して香代ちゃんに両手を振る。香代ちゃんはもう一度じろりと睨むと、再び目の前の仕事に取り掛かった。
 やれやれ、こりゃ大人しく待ってるしかないな。おばさんがさじを投げるのもよく解る。
 俺は手持ち無沙汰で仕方なく部屋を見まわした。
 どこにでもあるような田舎の家の居間だ。部屋の隅に真新しいテレビとその上にデジタルの置時計。壁には日めくりのカレンダーやどこぞのお土産か木彫りの置物がぶら下がり、古ぼけた箪笥の上には埃を被った菅笠や日本人形が飾ってある。部屋を仕切る襖は開け放たれ、その奥には薄明るい隣の部屋が広がっている。
 そこに、昨日ちらりと見た仏壇があった。
 俺は少し考えてから立ちあがる。
「これなんやけど……」
 それと同時に台所からおばさんが現れた。おばさんは立ちあがった俺を見て少し驚いた顔をした。
「あら、もう行かなきゃいけん時間?」
「いや、まだもう少しありますけど……」
「ならよかった。これなんやけどね」
 そう言うとおばさんは手に持っていたビニール袋を開けた。中には綺麗に包装された箱が二つ重ねて入っていた。
「お饅頭、二つ買うといたから一つは電車の中で食べればええと思うんやけど、もう一つはお父さんとお母さんに」
 俺はおばさんからそのビニール袋を受取った。
「どうもありがとうございます」
 頭を下げる。おばさんはいいのいいの、と言って笑った。
「なんかあわただしくてゴメンね。今日は午後からお坊さんが来はるんよ。それで色々忙しくてね」
 そういえば今日はお盆だ。
「昨日の内にお仏壇の埃は落しといたんやけどね。まだ足らんものとかあって……」
「あのう、お仏壇なんですけど、……俺も手を合わせていって良いですか?」
 そう切出すとおばさんは驚いたようだった。まじまじと俺を見つめる。しかし、すぐに表情を崩すと嬉しそうに笑った。まるでこう言われるのを待っていたのかのようだった。
「どうぞ、きっと香代も喜ぶけん。私からもお願いよ、香代の為に手を合わせてやって」
 おばさんはそう言って俺を仏壇の前に促した。
 俺はおばさんに頭を下げその前に正座して正面を見やる。すぐに香代の遺影が目に入った。
 そういえば、こいつを見たときからだった。
 昨日これを見て、俺は現実を突き付けられたのだ。それまでずっと目を逸らしつづけてきた事実を否応無く見せつけられたのだ。
 だから、俺はこいつを正視できなかった。
 でも、今は違う。
 線香の香りが部屋に満ちた。リンの澄んだ音が響き渡る。俺は静かに目を閉じ手を合わせた。

 香代……。

 今まで「忘れていた」と思っていたのは嘘だ。ただ、本当のことを恐れて、それを知るのが恐くて鬱屈としていただけだった……。
 俺は目を開け、香代の遺影を見つめた。彼女は笑っていた。
「できた!」
 その時、香代ちゃんが大きな声を挙げた。俺はそちらを見やる。すると彼女は紙を両手で大きく掲げていた。
「ようがんばったね。どう? できばえは」
 おばさんが目を細めてそう言うと香代ちゃんは照れ臭そうに笑った。
「う~ん、まあまあかな……」
 はにかみながら書いた手紙をテーブルに置く。そして傍らから白い飾り気の無い封筒を取り出した。
「お母さんには見せてくれんの?」
「う~ん、だーめ。シンタお兄ちゃんにだから……」
 そう言って手紙を折りにかかる香代ちゃんを見つめて、俺は昨日のことを思い出した。
「そういえばおばさん」
「なあに? しんちゃん」
「昨日の夜中、香代ちゃんの泣き声が聞こえてきたんですけど、あれってどうしたんですか?」
 おばさんはああそのことか、という顔をして、だが少し釈然としない面持ちになった。
「そのことなんやけどね……」
 そして考え込むように頬に手を当てる。
「おかしな話なんよ。びっくりして起きてみたら香代が泣きながら『お姉ちゃんがいってまう』って……」
「お姉ちゃんがいってまう?」
 俺は眉を寄せた。
「なんや、夢にお姉ちゃんが出てきたらしいんよ。それで香代ちゃんにお別れを言うたんだと」
「お別れですか……」
 俺はそう呟いて香代ちゃんを見つめた。香代ちゃんは手紙を三つ折にしながら、
「お姉ちゃんがお別れに来たんよ……」
 と続けた。
「お姉ちゃん、昨日言うとった。大事な用が終ったからもう帰らないけんって」
「大事な用?」
「うん、そう言うとった。それで、そう言って消えてしまったん」
「消えちゃった……」
「うん、置いてかんといてって言ったんやけど、お姉ちゃん笑って手ぇ振っとった」
「じゃあ今はいないの?」
「ううん、おるよ」
 俺はその言葉にドキリとなった。
「でもお盆が終ったら今度は帰ってまうんやと」
 香代ちゃんは綺麗に折った手紙を封筒にしまいながら、もうあたしのこと見守ってくれんのやろか……、と寂しそうに呟いた。
 おばさんは優しく笑うと香代ちゃんの頭を抱いてやった。香代ちゃんは少し泣きそうになっていた。
「なにバカなことを言うんかねこの子は。お姉ちゃんはずっと見守ってくれとるに決まってるやろ。いつでも香代ちゃんのことを見てくれとるよ」
 おばさんは一体今何が起きているのか解っているようだった。泣きそうな香代ちゃんの頭を優しくよしよしと撫でている。俺はその二人を見て胸が熱くなった。

「かーよーちゃ~ん!!」

 と、その時、男の子の大きな声が聞こえた。香代ちゃんの表情がパッと明るくなる。
「ゆうきくんだ!」
 その声と同時に玄関の方から庭へ、ひょいと男の子が顔を出した。男の子はこちらを見ると嬉しそうに駆けて来る。
「おはようございます!」
 男の子は元気よく挨拶して縁側の向こうに立った。
「あら裕樹君。いつ帰ってきたの?」
「昨日の夜!」
「東京のおばさんは元気にしてた?」
「うん! これおばちゃんにお土産! お母さんがよろしくって」
 そう言うと裕樹君は手に持っていたビニール袋を差し出した。おばさんは笑ってそれを受取る。中身はどうやら菓子折のようだ。
 香代ちゃんは目に溜まっていた涙をぬぐうと俺にポンと手紙の入った封筒を差し出し、縁側に飛び出した。
「シンタお兄ちゃん、それ絶対に今読んじゃいけんよ! おかあさん! ゆうきくんと遊んでくる!」
 縁側に飛び出した香代ちゃんだったが、どうやらそこには靴がなかったようだ、どたどたと駆けて玄関の方へと回って行く。
「コラ、香代! お昼過ぎには和尚さんがいらっしゃるんよ!」
 おばさんが怒ると、それまでにかえる! と玄関の方から声が聞こえた。おばさんは困った顔をして裕樹君を見た。
「裕樹君の所はもう和尚さんいらっしゃった?」
「うん、お経あげてさっき帰っちゃったよ」
「朝も早くから大変ねぇ……」
 まだ九時前だというのに。まあ、お盆は掻き入れ時だし当然といえば当然か。
 そんなことを考えていると、すぐに玄関から香代ちゃんが回ってきた。
「ゆうきくん、いこ!」
「うん!」
 二人は頷き合うと、一目散に外へと駆けて行く。そして気がつくともういなくなっていた。俺は半ば呆気に取られて二人の消えた庭を眺めていた。
「おやまあ、しんちゃんにお別れの挨拶もしないで」
 おばさんはため息混じりに呟く。でも俺には手を繋ぎながら駆けて行った二人の姿がなぜか好ましく見えた。
「仲良しなんですか?」
「そうなんよ、もう幼馴染みたいなもんかねぇ」
「幼馴染か……」
 ポツリと呟く。俺と香代もああだったかな……。昔のことを思い出しながら俺はふと時計を見た。もうバスの時間が近かった。